八甲田山_(映画)
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鳴沢から賽の河原にかけて神田大尉を含む五連隊の隊員の複数の遺体を発見[注釈 14]した」旨を五連隊捜索隊指揮官の木宮少佐へ報告。しかし、実際には神田大尉らの遺体は前日の時点で既に収容されており、田茂木野に設けられた「五連隊雪中行軍遭難犠牲者の遺体安置所」で(本来八甲田山中で会うはずだった)神田大尉の遺体と悲しみの対面をする形となった[注釈 15]。三十一連隊が八甲田雪中行軍を無事成功させた旨は「五連隊大量遭難」に霞み大きくは報じられなかったものの、その後の「寒地訓練確立と寒地対応装備の開発」へと活かされている。モデルは福島泰蔵大尉。
田辺(たなべ)中尉
演 - 浜田晃行軍本番中は徳島大尉の指示を復唱し、隊員に指示が行き届くようにした。中里の集落では案内人を最後尾に置くことを上申するが、徳島大尉に却下されている。
高畑(たかはた)少尉
演 - 加藤健一行軍本番前の「三十一連隊雪中行軍隊結団式」では、経路の事前調査と宿営地・案内人などの交渉を担当した佐藤一等卒と小山二等卒からの報告内容をメモする。行軍本番では小国から琵琶の平を経て切明への行軍中「後尾に付け」と徳島大尉に命ぜられ、隊列の最後尾に付く。
船山(ふなやま)見習士官
演 - 江幡連気象観測を担当する見習士官。銀山から宇樽部までの行軍中に実施した気象観測では「気温が6度も急降下し風も急に強まってきているので、これは本格的な大暴風雪の前兆ではないか」と徳島大尉に報告する。なお行軍中は「風向・風速を測るための吹き流し付き竹棒」と「積雪の深さを測る竹棒」をそれぞれ背嚢に固定すると共に、現在地の気温を測る温度計を携帯している(気温は「手元の温度計で測った温度」と「体感温度」の2種類を測定・報告)。また、足を捻挫した松尾伍長を背負う川瀬伍長の銃を持つように徳島大尉に命じられた。
長尾(ながお)見習士官
演 - 高山浩平隊員の疲労度調査を担当する見習士官。
倉持(くらもち)見習士官
演 - 安永憲司装備点検を担当する見習士官。宇樽部での宿営時は翌日に控えた犬吠峠越え行軍に備え、参加者全員が「濡れた軍服・下着・靴下・軍靴を干して囲炉裏の火で乾かすこと」と「かんじき・藁の雪沓・服装などの損傷の有無の点検」を自主的に励行したり、装備や服装に損傷があるときは新品を購入するなどした[注釈 16]
斉藤(さいとう)伍長
演 - 前田吟歩測担当。青森第五連隊の長谷部善次郎一等卒の兄。過去に徳島大尉の部下として、岩木山雪中行軍に参加した経験がある。弟・善次郎が幼い頃に宮城県栗原郡築館町(現在の栗原市)へ養子に出されたことから、雪の怖さを知らないこと、五連隊の雪中行軍参加者が地元の青森ではなく、積雪量の少ない岩手・宮城の出身者で構成されていることから、八甲田山で遭難する危険性が高いと考えて、行軍本番前に青森にいる叔母へ、弟に八甲田雪中行軍に参加しないように伝言している[注釈 17]。行軍本番では歩測調査により、小休止場所・宿営地までの歩数を記録した。中里から三本木への行軍中に、普段は切れることのない雑嚢の紐が切れ、このことで弟の死を確信した[注釈 18]。後に、八甲田山で弟の凍死体を発見し、直接会って雪の怖さを伝えられなかったことを後悔し、徳島大尉に弟を背負って帰りたいと懇願するも、隊の安全を優先する徳島大尉に後日救助隊が収容に来ると諭され、その場に遺体を残して行軍を続けた。
松尾(まつお)伍長
演 - 早田文次元山峠から銀山への行軍中、凍結していた下り坂で転倒し足を捻挫した。このため中里への宿営時は自分たちで掘った雪壕ではなく現地の民家へ泊まり、八甲田手前の三本木にて行軍隊より外され汽車(現在の青い森鉄道線と奥羽本線)で弘前へ帰営する。
川瀬(かわせ)伍長
演 - 吉村道夫銀山から宇樽部への行軍中に捻挫した松尾伍長の背嚢などを持つと共に、自力歩行困難となってきた松尾伍長を背負うよう徳島大尉から命じられた。
佐藤(さとう)一等卒
演 - 樋浦勉小山二等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路事前調査を年末年始の休暇返上で担当。佐藤一等卒は『「銀山の民宿経営者が三十一連隊の宿営を二つ返事で引き受けてくれた」旨と「銀山から宇樽部までは18 km。現地の積雪は約2 mあり、風はその日次第で今は何とも言えない」との情報を地元住民より得た』旨を徳島大尉へ報告する。三十一連隊への入営前に銀山で働いていた経験を活かし、行軍本番では銀山から宇樽部までの案内人を務めた。銀山で小休止中は「夏場に訪れた十和田湖の秀麗な湖面」を思い出していた。
加賀(かが)二等卒
演 - 久保田欣也喇叭手。行軍では「気温が低く猛吹雪となっている八甲田山中でも喇叭の音色を遠くまで響かせられるか否かを試す」旨の宿題を徳島大尉より与えられた。宇樽部にて宿営中は喇叭を磨きながら「五連隊(神田隊)がもし今日1月23日に出発していたら猛吹雪に遭い、えらいことになっているのでは?」という会話を斉藤伍長、西海記者と交わした。この予感は的中しており、神田隊は田茂木野以降で猛吹雪に見舞われていた。一行が犬吠峠を越えて中里の集落に入ると、徳島大尉の指示により先頭に立ち、喇叭を吹奏する[注釈 19]
小山(こやま)二等卒
演 - 広瀬昌助佐藤一等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路の事前調査を担当。増沢出身という地の利を活かし、行軍本番では三本木から増沢までの案内人を務めた(増沢への宿営時は参加隊員で唯一「実家での宿泊」を許可された)。
徳島の従卒
演 - 渡会洋幸佐藤一等卒・小山二等卒と共に「行軍本番前の経路事前調査と宿営地・案内人・消耗品・食糧調達交渉」を担当した。
曹長
演 - 原敬司
見習士官
演 - 北村博之、塚田一彦、広尾博、佐藤健二郎
弘前歩兵第三十一連隊
児島(こじま)大佐
演 -
丹波哲郎連隊長。弘前にある第四旅団司令部で行われた「日露戦争に備えての雪中行軍作戦会議」の終了後に、五連隊長の津村中佐へ「八甲田山の雪中行軍で(三十一連隊と五連隊の)両隊をすれ違う形にしよう」と提案し、これが実施されることになった。神田隊(五連隊)が消息を絶ったことが判明すると、徳島隊(三十一連隊)に雪中行軍の中止を命じようとしたが、徳島大尉への伝達手段がなかったことで徳島隊は神田隊が遭難していることを知らないままに八甲田山へ突入している。モデルは児玉大佐。
門間(もんま)少佐
演 - 藤岡琢也第一大隊長。徳島大尉の上官にあたり、児島大佐と共に三十一連隊雪中行軍経路とその参加人数の説明を受けている。行軍の参加人数が27名(従軍記者、案内人を除く)と少数であることに疑問を持つが[注釈 20]、徳島大尉から「雪中行軍が研究に主眼を置いたもので、いざというとき、国民や遺される家族に申し訳が立つ」という説明を受けている。1月25日に徳島隊の宿営地である三本木に電話で「予定では神田隊が三本木に着いているはず」と宿の主人に伝言をしている。神田隊が八甲田山で消息を絶ったことが判明すると、児島大佐に徳島隊の八甲田突入の中止を上申。連隊長の中止命令を受けるが、徳島大尉への命令伝達手段がなく、手を拱(こまね)いてしまった。
弘前第八師団
友田(ともだ)少将
演 -
島田正吾第四旅団長。雪中行軍作戦会議において、弘前の徳島大尉と青森の神田大尉をそれぞれの指揮官に指名[注釈 21]。八甲田を雪中行軍可能な山岳として手頃な場所であるとして、行軍の成功を期待していた。神田隊が消息を絶ったことが判明した後、八甲田突入前であった徳島隊が突入中止になったか否か参謀長の中林大佐に尋ねるが、連絡手段がなく徳島隊が八甲田へ突入していると聞き、徳島隊の安否を気遣った。モデルは友安治延少将。
中林(なかばやし)大佐
演 - 大滝秀治第八師団参謀長。「日露戦争に備えての寒地教育訓練確立」を目的として、青森第五連隊と弘前第三十一連隊への「八甲田雪中行軍」を友田少将と共に提案した。ただし、雪中行軍自体は各連隊に計画策定から編成までを委ねる方針とした。雪中行軍自体は日清戦争により遼東半島で多数の兵士が凍傷にかかり、作戦行動に支障をきたしたことから、より極寒地で戦闘することになるであろうロシア軍対策として寒冷地訓練体制の充実が必要であったことから立案されている。そのため、雪中行軍ではありとあらゆる可能性と方法を研究せよと説明している。また今回の雪中行軍は「陸奥湾と津軽海峡がロシア軍により封鎖され、青森と八戸・弘前を結ぶ沿岸交通路が(艦砲射撃などの被害を受けて)万一断たれた場合、内陸部の八甲田がそれらを結ぶ唯一の経路となる。しかし積雪量の多い八甲田が冬期間物資輸送路として設定可能か否か当時は未知数だったので、五連隊と三十一連隊が小隊・中隊いずれかの編成を各自で組み、各隊に合った方法で冬期間の八甲田を踏破して(冬でも八甲田を)物資輸送経路にできるか否か試す」意味もあり、それについても作戦会議で説明。「雪や寒さとは一体何かを(冬の八甲田踏破を通じて)研究し、青森五連隊は五連隊らしく・弘前三十一連隊は三十一連隊らしく、この八甲田雪中行軍は必ず成功させるべし」と強調した。三十一連隊から行軍計画書の提出を受けた際は「一切は徳島大尉の責任として、上官は余計な口出しをしない」ことを連隊に約束させ、門間少佐と児島大佐に環境を整えるよう上申を行った。神田隊(五連隊)の消息不明が判明後、第八師団長も五連隊の雪中行軍隊遭難を憂慮していたことから、所属連隊に限らず第四旅団麾下の工兵、通信隊にいたるまで出動命令を出したほか、第八師団麾下で救助体制を採る方針を決定している。後に、「その(12名いる生存者の)中には、今回の五連隊雪中行軍最初の目的地・田代にまで達している村山伍長がいる」として大元の行軍目的は達成され、五連隊行軍参加者210名が全滅の憂き目を免れたことに安堵していた。
青森歩兵第五連隊
雪中行軍隊
神田(かんだ)大尉
演 -
北大路欣也第二大隊第五中隊長。雪中行軍隊の指揮官。秋田県出身で、自宅が青森市筒井にある。平地での雪中行軍は実施経験があったものの、山岳地帯での行軍は今回の八甲田が初だった。そのため、雪中行軍前の予備演習実施を徳島大尉から勧められ、八甲田の小峠で「小隊編成かつソリ1台」による予備演習を実施。予備演習は好天であり、成果は行軍参加者の人選、隊の編制資料として活用した。行軍は田代[注釈 22]に宿営する1泊2日を予定したが、悪天候などによる日程順延を想定し、田代と増沢を宿営地とする2泊3日に変更。行軍終了後は三本木から汽車(現在の青い森鉄道線)で帰営するとしていた。しかし、隊員の大半が冬山に不慣れであったことに加え、猛吹雪などの悪天候を想定した雪壕を掘っての露営や背負子を用いた荷物運搬などを予備演習では実施しておらず、行軍本番は神田隊にとって2泊3日でも強行日程であった。行軍本番前に部下の藤村曹長、江藤伍長、伊東中尉を率いて経路の事前調査を行い、江藤伍長から紹介された田茂木野村の村長・作右衞門に「冬の八甲田の様子と行軍を成功させるために必要な装備など」についての説明を受ける[注釈 23]。また、汽車(現在の奥羽本線)で弘前の徳島大尉の自宅を訪ねて岩木山雪中行軍の情報収集を行い、八甲田雪中行軍の参考資料とした[注釈 24]。津村連隊長より「先に提出された徳島隊行軍計画書が受理され、三十一連隊の雪中行軍実施許可が出された」旨の電話連絡を受けると直ちに連隊長室へ赴き、(徳島隊の行軍計画書を山田少佐ら同席の下で閲覧したのち)「青森市内より田茂木野?田代?増沢経由の一本道で三本木へ向かう」とする自隊の行軍経路を津村連隊長・山田少佐らに説明。席上・津村連隊長より「本番での行軍隊編成はどうするか」について聞かれると、「(自分としては、徳島大尉より学んだ事項を踏まえて)極力少人数の小隊編成とし・道案内人も必要と考えるが、それらの可否は小峠までの予備演習結果をみて決める」と述べた。だが、作右衞門の説明・徳島大尉宅での勉強会で学んだ内容・予備演習の成果は雪中行軍本番に活かされず、上官の第二大隊長・山田少佐には「(『冬の八甲田は白い地獄だ』との話を地元民より聞いたため)田茂木野で事前に案内人を頼んだ」旨を報告しなかった。のちに(徳島隊の行軍計画書閲覧時に「小隊編成の三十一連隊長距離行軍は強引かつ無謀すぎるから成功するとは思えない」と皮肉り、「小峠までの予備演習結果は良好だった」旨の報告を神田大尉より受けた)山田少佐が雪中行軍の目的を「小隊編成かつ長距離の三十一連隊に勝つため」へとすり替え・「大隊を繰り出しても八甲田へ行ける」として本番直前に(自身の小隊編成要望を一方的に退けて)行軍隊編成を急きょ変更。
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