八甲田山_(映画)
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注釈^ ソリによる荷物輸送はもともと平坦な道向きとされ、坂道(上りと下りの勾配)には弱い。よって、行軍隊の荷物をソリに載せて自分たちで運ぶ方法は適切でなかったといえる。大隊長の山田少佐による行軍計画変更「(予備演習の結果が良好だったことを受けての)大隊本部が随行する総勢210名の中隊編成へ大量増員」は・特に行李輸送隊へ多大な負担を強いることとなり、ソリを牽引・後押しした隊員は汗だくになって体力を消耗し「大量遭難」という悲劇へつながっていった(参加人員が大きく膨れ上がり荷物が倍増したことでソリは重くなり、田代までの道中は幸畑以降で積雪が増えて上り勾配が延々と続き、これが「ソリが前に進まず・本隊より後方へ2km以上も大きく引き離されたため行軍全体に大幅な遅れが生じ、日没前に田代へ着けなくなって途中で露営する」一因となった。神田大尉による「ソリ後押し援護要員派遣」も焼け石に水で、援護要員の負担も並大抵のものではなかった)。
^ 例として、「雪壕を掘っての露営」を岩木山の雪中行軍本番で実践していたため、八甲田山雪中行軍本番でも組み入れていた。
^ 徳島大尉は「五連隊は青森から田茂木野?田代?増沢の一本道経由で三本木へ向かう」と(五連隊の行軍計画書提出前から)既に予想していた。門間少佐と児島大佐へ行軍計画書を提出した時は「弘前発の三十一連隊がこのような長距離行軍(五連隊と八甲田ですれ違うべく十和田湖経由で大迂回するしかない経路)となったのは、神田隊と八甲田山中ですれ違う約束をさせた連隊長殿の責任であり、この計画を無謀と思うなら五連隊との約束を考え直してほしい。自分は旅団司令部で冬の八甲田を安請け合いしたことを後悔している。調査をすればするほど恐ろしく、日本海と太平洋の風が直接ぶつかる八甲田は、冬の山岳としてはこれ以上ない最悪の地帯。今後50年・100年経っても冬の八甲田は頑として人を阻み、通行を許さないだろう。よって「八甲田雪中行軍はやめるべき」との意見具申を考えたが、五連隊は神田大尉を指揮官として冬の八甲田へ挑むので、自分も八甲田へ行かねばならない」と述べている。
^ 勉強会冒頭では「五連隊はあなた(神田大尉)のような熱心な方がいるが、こちら(三十一連隊)の準備はまだです」と前置きしたうえで、「もし自分が八甲田(雪中行軍)をやるとなれば、編成は小隊編成となるだろう」と述べ、「当初から小隊編成で行軍する方針を決めている」旨を強調した。神田大尉は冒頭「自隊(五連隊)は小隊・中隊どちらの編成にするか現時点ではっきり決まっていない」と述べ、徳島大尉の話を聞いてから「我が五連隊も小隊編成にする」と一度は決めたものの、その考えは上官・山田少佐に覆されて「中隊編成」へと膨らみ、悲劇のきっかけとなっていった。
^ 弘前の自宅へ神田大尉を招いての勉強会では、「師団の参謀長・旅団長は『雪中行軍はあくまで各連隊の責任で実施すべし』と言っている。上から命令されれば装備・予算など色々ねじ込まれるから」と述べると共に、初の山岳雪中行軍となる神田大尉へ「本番前に予備演習をする」よう勧めた。しかし五連隊は神田大尉が(徳島大尉からの忠告に基づいて)実践した予備演習とは異なり、本番では(三十一連隊に勝ちたいとする)山田少佐の意向により・行軍参加人数とソリ台数が予想より大幅に膨れ上がることとなり(予備演習の成果は雪中行軍本番に活かされず)、これが「大量遭難」という悲劇につながっていった。
^ 雪中行軍経験に乏しい五連隊(神田隊)は徳島大尉のような知識を持ち合わせていなかったため、ほとんどの隊員が水筒に水を隙間なく入れ満水状態にして出発。このため小峠へ着くまでに飲料水は(携帯食糧共々)凍結してしまい、これが「脱水症状による疲労」を引き起こして悲劇(大量遭難)へつながった。
^ 徳島隊の結団式では、各隊員が着用する防寒靴など各種装備の見本が展示された。
^ 具体的には、増沢から田代・馬立場・賽の河原にかけての八甲田東南山麓と推測するとし、実際の文面には「我が三十一連隊が八甲田で危険かつ困難な状態に陥った場合、どうか武士の情けでお助けをよろしくお願いします」と書いた。
^ ただし元山峠から銀山への下り坂で転倒し負傷した松尾伍長のみ、(この先の三本木より弘前へ中途帰営させる前に)現地の民家へ宿営させている。
^ 増沢から田代への道中では大規模な雪崩に巻き込まれそうになったが、それでも徳島隊一行は諦めず八甲田へ向け前進した。
^ 徳島隊は「雪濠を掘る深さは身長の倍となる4mにすれば寒さと暴風雪を十分しのげる」旨の情報を本番前に地元住民より得ていた。一方で神田隊は往路・平沢での露営時に(徳島隊の半分となる)2mの深さまでしか雪濠を掘っておらず、暴風雪や寒さを十分しのげる状態とはいえなかった。
^ 徳島大尉が「装備を極力軽くした」理由は「自隊の安全を最優先し、万一の悪天候遭遇時でも行軍に参加する隊員全員の命を守る」ためだった。神田大尉もそれらを本番前に徳島大尉より教わっていたが、上官・山田少佐の圧力に屈して本番では「自隊の安全を最優先する」原則が守れず、「倒れた隊員を助ける隊員が共倒れする」事態が重なって「大量遭難」という悲劇を招いた。
^ 黙祷する際の構えは隊員の階級により異なり、小隊長以上は「軍刀を抜いての構え」、兵卒と下士卒は銃を構えて「捧げ筒」。従軍記者の西海勇次郎は脱帽する形で黙祷した。
^ 後に徳島大尉は道中の案内人に「八甲田で見聞きしたことを口外してはならない」と諭している。
^ 徳島隊が八甲田を越えて田茂木野へ着いたのは1月30日午前2時過ぎで、(捜索隊の指揮を執っていた五連隊の木宮少佐へ「宿舎の必要があるので設営指揮官にお会いしたい」と申し出たものの)この日は現地の民家が五連隊(神田隊)の捜索隊詰所(現地指揮本部)や遺体安置所として使われ宿営の空きが無かったため、2時間休憩しただけで青森市内へ出発。同日朝7時20分に青森市内へ到着後は「完全休養日」に充当して市内へ滞在・宿泊した。翌31日に弘前へ向けて行軍を再開し、浪岡での宿営を経て2月1日に帰営。(悪天候で田代温泉への道を見つけられず、雪濠を掘って露営したため)予定より1日多い11泊12日の雪中行軍を無事完遂した。なお当初は「青森からは梵珠山を踏破して弘前へ帰営する」計画だったが、五連隊の遭難発覚後に梵珠山踏破は中止し、羽州街道(現在の国道7号)を歩いて弘前へ帰営する形と変更している。
^ 八甲田手前の三本木では、殆どの隊員が新品の藁沓・かんじきや指先の凍傷防止に用いる唐辛子などを購入している。
^ 事前に長谷部一等卒へ宛てて「八甲田雪中行軍は一歩間違えば生きて帰れない雪地獄にはまり込むから、出発前に叔母の家で別れがしたい」旨の手紙を出し、叔母の家で弟と会う約束をしていたが、斎藤伍長は行軍出発日が迫っていたため弟とは直接会えず、「自分は(徳島大尉殿の部下として)岩木山雪中行軍にも参加したことがあるので・今回の八甲田雪中行軍に志願しないわけにはいかないが、弟・善次郎には『五連隊の状況を考え、今回の八甲田雪中行軍には参加しないほうがいい』と言ってほしい」旨の伝言を叔母に依頼し汽車で弘前の三十一連隊屯営へ戻った。兄からの手紙を読んだ長谷部一等卒は、神田大尉より外出許可を得て叔母の家に行ったものの・兄に直接会えなかったことから神田大尉の自宅へ出向き、風呂を沸かしながら神田大尉へ兄からの伝言内容を報告。神田大尉より「もし怖いなら雪中行軍に参加しなくて良い」と言われても「兄は心配性なだけ。小峠までの予備演習は雪の中の遠足だったので本番も大したことない。自分は神田大尉殿の従卒なので、自身が雪中行軍に出なければ中隊長殿に失礼となる。五連隊は八甲田山中で三十一連隊とすれ違うから、その時は久々に兄(斎藤伍長)と会える」との期待を込め、今回の八甲田雪中行軍に参加する旨を自ら決心した(だが兄の斎藤伍長は「雪の中の遠足」という言葉を最も危惧しており、その不安は本番で的中してしまう)。
^ このことを徳島大尉に伝えるが、「弟の死は思い過ごしで、疲労による幻覚だ」と言われている。
^ 喇叭の音色を聴いた中里の住民は、日の丸の小旗を振って徳島隊一行を出迎えた(日の丸の旗は八甲田手前の宿営地・増沢集落でも地元住民が掲揚し、「青森歩兵第五連隊・弘前歩兵第三十一連隊御休憩所」看板も地元住民の揮毫により同時掲示)。
^ この時、児島大佐も「兵卒6名で残りが下士官・見習士官である」ことに疑問を持つ。
^ 徳島大尉と神田大尉は共に「周到な準備をしたうえで八甲田雪中行軍を実施したい」と答えた。しかし徳島隊(三十一連隊)と神田隊(五連隊)は事前準備期間に大きな差が生まれ、徳島隊は事前準備に(年をまたいで)1か月かけたが、神田隊の事前準備期間はわずか1週間足らずで・かつ急ごしらえの参加者人選となり、この差が両隊の明暗を分けることになった。
^ 田代温泉&田代元湯・および史実の「田代新湯」はもともと目立たない(冬期間は見つけにくい)小規模の温泉だったため、210名の大所帯となった五連隊の宿営を受け入れる容量はそもそも持ち合わせておらず、行軍事前調査での「田代についての下調べ」は地元民(幸畑・田茂木野在住者)より話を聞く程度にとどまっていた。
^ 作右衛門は行軍事前調査の時(「1月末か2月初めに、田茂木野村民でここから田代を経て増沢を通り、三本木へ行った者はいないか?」という神田大尉からの質問に対し)「そんな馬鹿者はいない。1月と2月の八甲田は雪が深くて風も強く、とても歩けたものではない。これまでに田代を目指した地元民(幸畑および田茂木野の者)が何人も吹雪に呑み込まれ賽の河原で命を落としており、冬の八甲田は一度踏み込んだら生きて帰れない・白い地獄だ。もし雪中行軍するなら普通の兵隊靴では深い雪に潜り込むから、履物は丈夫な藁の雪沓が良い。案内人については、する側・される側いずれも人によりけりだ」と神田大尉に説明。本番当日に田茂木野で小休止をしていた五連隊へも村人を引き連れて駆け寄り、「案内なしで田代まで行くのは無理だ。山は毎日吹雪だし、田代までは広い雪の原っぱで目標物は何もない」と無謀な行軍をしないよう説得したが大隊本部の山田少佐に退けられ、最後は「よりによって山の神様の日に、命知らずの馬鹿な真似にもほどがある」と悪天候下での無謀な行軍強行を嘆いた。
^ 徳島大尉宅を後にする際は「これから本番まで準備に忙殺され徳島大尉と会えなくなりそうなので、次回は雪の八甲田のどこかで会う」ことを約束したが、本番での再会は(五連隊が大量遭難を引き起こし、指揮官の神田大尉がその責任を取って自決したため)叶わなかった。
^ 予備演習終了後に山田少佐へ(「大隊を繰り出せるのは、今回実施した予備演習時のような好天に恵まれた場合の話」と前置きしたうえで)行軍規模を小隊編成としたい理由を「三十一連隊の真似ではなく、人員の増加は行李輸送隊の負担を増やすばかりで、また連隊相互の約束から徳島隊も少数かつ長期日程にせざるを得なかったからだ」と説明したが、演習の結果が良好であったこと・小隊編成かつ長距離の徳島隊に勝って自隊の面子を保ちたいことなどを理由に山田少佐には受け入れられなかった。
^ だが神田隊の出発日は徳島大尉が手紙を書いた時点で決まっておらず、神田隊が出発した1月23日に徳島隊は宇樽部で宿営していた。
^ 山田少佐の意向により参加人員が「大隊本部随行の総勢210名」に膨れ上がったため・連隊長室には行軍参加隊員が全員入りきらず、結団式には小隊長以上の隊員と随行大隊本部員しか出席できなかった。また結団式後も部下は行軍用品注文などの電話応対に追われ、神田大尉の説明に耳を傾けている余裕はなかった。服装・装備・履物は防寒性に優れたものでなかったうえ、本番では小峠到着段階で多くの隊員が携行食糧や飲料水(水筒の水)を凍結させてしまい・凍って食べられなくなった食糧は雪中に捨てたため、これが「寒さ・疲労・絶食による遭難」へとつながっていった。
^ 携帯懐炉は当時高価だったため、将校・上官より低賃金だった下士卒は(自分の稼ぎで)満足に懐炉を買えず、こうした「階級による隊員の賃金格差」も悲劇の一因となった。
^ もともとの計画では、(「小隊編成でないと冬の八甲田は越せない」ことを徳島大尉宅での事前勉強会で確信したため)八甲田山中を小隊編成かつ案内人付きで行軍することとしていたが、山田少佐が独断で「大隊本部随行と大量増員」を断行し案内人雇用を却下した。
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