八甲田山_(映画)
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^ 徳島大尉と神田大尉は共に「周到な準備をしたうえで八甲田雪中行軍を実施したい」と答えた。しかし徳島隊(三十一連隊)と神田隊(五連隊)は事前準備期間に大きな差が生まれ、徳島隊は事前準備に(年をまたいで)1か月かけたが、神田隊の事前準備期間はわずか1週間足らずで・かつ急ごしらえの参加者人選となり、この差が両隊の明暗を分けることになった。
^ 田代温泉&田代元湯・および史実の「田代新湯」はもともと目立たない(冬期間は見つけにくい)小規模の温泉だったため、210名の大所帯となった五連隊の宿営を受け入れる容量はそもそも持ち合わせておらず、行軍事前調査での「田代についての下調べ」は地元民(幸畑・田茂木野在住者)より話を聞く程度にとどまっていた。
^ 作右衛門は行軍事前調査の時(「1月末か2月初めに、田茂木野村民でここから田代を経て増沢を通り、三本木へ行った者はいないか?」という神田大尉からの質問に対し)「そんな馬鹿者はいない。1月と2月の八甲田は雪が深くて風も強く、とても歩けたものではない。これまでに田代を目指した地元民(幸畑および田茂木野の者)が何人も吹雪に呑み込まれ賽の河原で命を落としており、冬の八甲田は一度踏み込んだら生きて帰れない・白い地獄だ。もし雪中行軍するなら普通の兵隊靴では深い雪に潜り込むから、履物は丈夫な藁の雪沓が良い。案内人については、する側・される側いずれも人によりけりだ」と神田大尉に説明。本番当日に田茂木野で小休止をしていた五連隊へも村人を引き連れて駆け寄り、「案内なしで田代まで行くのは無理だ。山は毎日吹雪だし、田代までは広い雪の原っぱで目標物は何もない」と無謀な行軍をしないよう説得したが大隊本部の山田少佐に退けられ、最後は「よりによって山の神様の日に、命知らずの馬鹿な真似にもほどがある」と悪天候下での無謀な行軍強行を嘆いた。
^ 徳島大尉宅を後にする際は「これから本番まで準備に忙殺され徳島大尉と会えなくなりそうなので、次回は雪の八甲田のどこかで会う」ことを約束したが、本番での再会は(五連隊が大量遭難を引き起こし、指揮官の神田大尉がその責任を取って自決したため)叶わなかった。
^ 予備演習終了後に山田少佐へ(「大隊を繰り出せるのは、今回実施した予備演習時のような好天に恵まれた場合の話」と前置きしたうえで)行軍規模を小隊編成としたい理由を「三十一連隊の真似ではなく、人員の増加は行李輸送隊の負担を増やすばかりで、また連隊相互の約束から徳島隊も少数かつ長期日程にせざるを得なかったからだ」と説明したが、演習の結果が良好であったこと・小隊編成かつ長距離の徳島隊に勝って自隊の面子を保ちたいことなどを理由に山田少佐には受け入れられなかった。
^ だが神田隊の出発日は徳島大尉が手紙を書いた時点で決まっておらず、神田隊が出発した1月23日に徳島隊は宇樽部で宿営していた。
^ 山田少佐の意向により参加人員が「大隊本部随行の総勢210名」に膨れ上がったため・連隊長室には行軍参加隊員が全員入りきらず、結団式には小隊長以上の隊員と随行大隊本部員しか出席できなかった。また結団式後も部下は行軍用品注文などの電話応対に追われ、神田大尉の説明に耳を傾けている余裕はなかった。服装・装備・履物は防寒性に優れたものでなかったうえ、本番では小峠到着段階で多くの隊員が携行食糧や飲料水(水筒の水)を凍結させてしまい・凍って食べられなくなった食糧は雪中に捨てたため、これが「寒さ・疲労・絶食による遭難」へとつながっていった。
^ 携帯懐炉は当時高価だったため、将校・上官より低賃金だった下士卒は(自分の稼ぎで)満足に懐炉を買えず、こうした「階級による隊員の賃金格差」も悲劇の一因となった。
^ もともとの計画では、(「小隊編成でないと冬の八甲田は越せない」ことを徳島大尉宅での事前勉強会で確信したため)八甲田山中を小隊編成かつ案内人付きで行軍することとしていたが、山田少佐が独断で「大隊本部随行と大量増員」を断行し案内人雇用を却下した。この他、悪天候による中止具申を無視されたり、ソリ隊(輸送隊)が遅れていることからソリを放棄して各隊員に荷物を背負わせるとする上申も退けられた。方位磁石はやがて針が凍結して使えなくなり、復路は地図を頼りにほぼ勘に頼っての行軍となった。
^ 汗だくになったソリ隊員は、幸畑での小休止時に暑さのため厚手の防寒外套を脱ぎ・以降は薄手の上着でソリを牽引。最終的に深い雪で立ち往生する平沢手前まで「大汗をかき暑かったため薄着でソリを牽引」したことが「激烈な寒さによる凍死」につながっていった。
^ その際「田代到着と同時に喇叭を吹奏し、悪天候で喇叭吹奏不可能の場合は伝令を直ちに本隊へ帰らせる」よう藤村曹長へ指示している。なお中橋小隊らに対して行った「田茂木野?平沢間でのソリ隊援護指示」は当初計画に無かった(予定外の)行動で、「山田少佐の意向により参加人員が大きく膨れ上がったため・荷物量とソリ台数が増え重くなったこと」と、「大量に積もった新雪に阻まれて重いソリが前に進まず・本隊より大幅に遅れていた」ことから、「後押し要員を増やして遅れを少しでも回復させ、ソリが本隊に追いつけるようにする」ために行った。だがそれでも重い荷物を積んだソリは深い雪と上り坂による摩擦抵抗が大きく・横滑りまでは防げなかったためソリ前進は困難を極め(後押し要員を増やしても遅れが回復せず本隊に追いつけない状況は変わらず)、ソリ隊を援護した隊員も大汗をかき、かつ馬立場でようやく小休止できると期待していた下士卒も「遅れているソリ隊援護」という予定外の任務へ駆り出され体力を消耗していった。
^ 当時は満月で月明かりが雪に反射していたため隊は日没に気づかず、「まだ先に行ける」と判断して田代への行軍を20時頃まで続けた。雪濠では「わずか2km先にある田代への道を見つけられない」事態に苦悩し、猛吹雪や地吹雪により周囲の視界がゼロとなる「ホワイトアウト」と・寒さや日没により方向感覚を失って同じ場所を回り続ける「リングワンダリング」の恐怖を実感した。藤村曹長へは本番前に「田代への道順」を教えていたが、本番は「ソリ隊遅れ」・「悪天候」・「日没」など予想外の事態が重なり、(事前に勉強していた)田代への道順を藤村曹長が猛吹雪と暗闇で見失うことは神田大尉にとっても想定外だった。
^ 復路・馬立場での「これより中の森・按の木森を経て賽の河原を越え、大峠・小峠の先の田茂木野へ向かう」が、神田大尉が最期に発した出発号令となった。三十一連隊の徳島大尉より「賽の河原で神田大尉らの遺体を見つけた」旨の報告を受けた捜索隊指揮官の木宮少佐は、「行軍指揮官の神田大尉は今回の遭難の責任を感じたのか、凍えきった体に最後の力を振り絞り、見事に舌を噛み切っていた」と返答している。
^ だが神田大尉は「大隊長殿には大隊長殿のお考えもあるようだ。三十一連隊の出発が迫っているので、たとえ2個や1個小隊になったとしても行軍に最適となる参加者人選を直ちにする」よう指示。事前準備期間が十分確保されず余裕のない状態での急ごしらえ人選を迫られ、伊東中尉ら部下の不安は解消されないまま「大隊本部が随行し、行軍参加人数が予想より大幅に膨れ上がる」こととなった。
^ 神田大尉は「案内人の件は決定していた事項ではない。色々と困難はあるが、それを一つひとつ乗り越えることに今回の雪中行軍の意味がある」と返答。伊東中尉ら部下の不安は解消されず不完全燃焼のまま「案内人なしで猛吹雪の八甲田へ突入」する形となり、これが「大量遭難による五連隊全滅」のきっかけとなった。田茂木野以降の行軍では神田大尉が江藤伍長に前方偵察をさせると共に・手元の地図を見ながら部下に針路を指示したが、猛吹雪の中・かつ夜間カンテラで手元を照らしてもらいながらの地図読みは困難を極めた。
^ 神田大尉は「雪明かりとはいえ夜の道であり、そのうえ鳴沢は地形が複雑なので一度峡谷にはまり込めば脱出が難しい。でもこの行軍は自ら先導して田代へ着けるようにする」と返答。のちに山田少佐が「将校偵察として直ちに田代へ斥候せよ」と神田大尉に命じて本隊指揮を代行したが、本隊は猛吹雪の中で神田大尉に追いつけず・かつソリ隊の大幅遅れで田代到着前に(馬立場到着時点で)日没となったため、途中の平沢で雪濠を掘っての露営を余儀なくされた。この時の夕食は火を熾してスコップの上で焼いた餅と生煮えの米のみで到底満足な量とはいえず、水筒の水も凍結していたため解かさないと飲めなかった。炊事班の雪濠は大隊本部と兼用しており、平釜で炊事しようにも点火に1時間近くを要したうえ、炎の熱で周囲の雪が解けて釜が傾くなど足場が不安定だったため困難を極めた。加えて総勢210名全員が平等に暖をとることはできず、火の近くにいる一部隊員が交代で暖をとるだけにとどまったため・寒さを十分しのげる状態とは言い難かった。また周囲の積雪は5mほどあったため、雪を掘ってもなかなか地面に行き当たらず、最も深くて2.5m掘るのが精いっぱいだった。
^ 賽の河原へ向かった神田大尉の集団は経路を比較的正確に進んでいたが、猛吹雪の直撃を受けていた。その一方、駒込川へ向かった倉田大尉・伊東中尉らの集団は本来の経路から外れていたものの猛吹雪の直撃を免れたため、救助隊が来るまで体力を温存できた。
^ 平山一等卒や下士卒が「田代で温泉に入って一杯のはずがこんなことか・・・」と不満を漏らすと、「大隊本部が(神田大尉に追いつけず)立ち往生したので、神田大尉殿がわざわざ露営地を探し、伝令で導いてもらったからだ」と雪濠を掘った理由を述べた。
^ 実際には平山一等卒が付き従ったが途中で落伍する。
^ 田代到着前に日没を迎えたため途中で露営した平沢では、田代で飲む予定だった酒が異臭を帯びて飲めなかった。
^ 携帯食糧を雑嚢に入れたら凍ってしまうため、自身の食糧は油紙に包んで体に巻き付け、体温で凍結を防止した。
^ 江藤伍長が微かに言った「神田大尉殿」という言葉をもとに救助隊が周辺を捜索した結果、江藤伍長発見場所から100m先で全身が凍結した神田大尉を発見・収容している(軍医が気付け薬を注射し蘇生しようとしたものの・皮膚まで凍結していて針が刺さらず、次に口から薬を飲ませようとしたが神田大尉は結局息を引き取った)。
^ 往路・大峠で小休止時は渡辺伍長に「田代はどちらの方向でありますか?、向こうは白い雪で何も見えないのですが・・・」と聞き、夏場とは180度異なる環境に戸惑っていた。
^ 先に提出・受理された三十一連隊の行軍計画書を木宮少佐ら同席の下で閲覧した時は、「徳島隊の長距離行軍計画は強引かつ無謀すぎ、夏場でも容易ではないから成功するとは思えない」と皮肉った。のちの良好だった予備演習の結果が三十一連隊への対抗意識に火をつける形となって、大隊本部が随行する総勢210名の大所帯編成につながり、大量遭難のきっかけとなった。神田大尉から「行李輸送隊の負担を減らすべく小隊編成にしたい」旨の申し出を受けた時は、「三十一連隊が小隊の240km。対する我が五連隊は同じ小隊編成でも行軍距離は四分の一にも満たない50km。もし徳島隊の行軍が成功すれば踏破距離に優劣がはっきりつきすぎる」と返答し、「あくまで中隊編成と大隊本部随行」の方針を崩さなかった。
^ 本番での行軍隊は、先頭で雪を踏み固めて行軍経路を開拓する「かんじき隊」・中心となる神田大尉率いる本隊(中隊指揮班と第1?第5小隊)・随行する「大隊本部」・荷物を積んだ「ソリ隊(ソリ1台につき牽引担当3人・後押し担当1人の計4人体制。8台で計32人)」の4部門で構成(かんじき隊とソリ隊は最も負担が大きいため、神田大尉の指示で数kmごとに人員交替)。本隊はかんじき隊が踏み固めた道を歩き・重い荷物運搬はソリ隊に任せていて身軽な状態だったため、これが雪山の危険性を軽視する隊員増加と特定部門への負荷集中へとつながっていった。
^ 計画書を見た津村連隊長は当初、大隊本部随行で指揮系統の乱れを招かないか不安を感じた。だが山田少佐より「今朝未明(1月20日早朝)、三十一連隊(徳島隊)は既に弘前を出発した」との報告を受けると本隊の指揮は神田大尉が執る旨を再確認したうえで計画書に署名捺印。連隊長の不安は解消されないまま雪中行軍実施許可が出され、その不安は的中してしまう。
^ この時、田茂木野村長の作右衞門に自慢した山田少佐の方位磁石は、駒込川の峡谷に迷い込んだところで針が凍結して使用不能になっている。
^ この一件に関しては、神田大尉が山田少佐に案内人を事前に頼んでいたことを報告していなかったことも一因である。
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