八甲田山_(映画)
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雪中行軍自体は日清戦争により遼東半島で多数の兵士が凍傷にかかり、作戦行動に支障をきたしたことから、より極寒地で戦闘することになるであろうロシア軍対策として寒冷地訓練体制の充実が必要であったことから立案されている。そのため、雪中行軍ではありとあらゆる可能性と方法を研究せよと説明している。また今回の雪中行軍は「陸奥湾と津軽海峡がロシア軍により封鎖され、青森と八戸・弘前を結ぶ沿岸交通路が(艦砲射撃などの被害を受けて)万一断たれた場合、内陸部の八甲田がそれらを結ぶ唯一の経路となる。しかし積雪量の多い八甲田が冬期間物資輸送路として設定可能か否か当時は未知数だったので、五連隊と三十一連隊が小隊・中隊いずれかの編成を各自で組み、各隊に合った方法で冬期間の八甲田を踏破して(冬でも八甲田を)物資輸送経路にできるか否か試す」意味もあり、それについても作戦会議で説明。「雪や寒さとは一体何かを(冬の八甲田踏破を通じて)研究し、青森五連隊は五連隊らしく・弘前三十一連隊は三十一連隊らしく、この八甲田雪中行軍は必ず成功させるべし」と強調した。三十一連隊から行軍計画書の提出を受けた際は「一切は徳島大尉の責任として、上官は余計な口出しをしない」ことを連隊に約束させ、門間少佐と児島大佐に環境を整えるよう上申を行った。神田隊(五連隊)の消息不明が判明後、第八師団長も五連隊の雪中行軍隊遭難を憂慮していたことから、所属連隊に限らず第四旅団麾下の工兵、通信隊にいたるまで出動命令を出したほか、第八師団麾下で救助体制を採る方針を決定している。後に、「その(12名いる生存者の)中には、今回の五連隊雪中行軍最初の目的地・田代にまで達している村山伍長がいる」として大元の行軍目的は達成され、五連隊行軍参加者210名が全滅の憂き目を免れたことに安堵していた。
青森歩兵第五連隊
雪中行軍隊
神田(かんだ)大尉
演 -
北大路欣也第二大隊第五中隊長。雪中行軍隊の指揮官。秋田県出身で、自宅が青森市筒井にある。平地での雪中行軍は実施経験があったものの、山岳地帯での行軍は今回の八甲田が初だった。そのため、雪中行軍前の予備演習実施を徳島大尉から勧められ、八甲田の小峠で「小隊編成かつソリ1台」による予備演習を実施。予備演習は好天であり、成果は行軍参加者の人選、隊の編制資料として活用した。行軍は田代[注釈 22]に宿営する1泊2日を予定したが、悪天候などによる日程順延を想定し、田代と増沢を宿営地とする2泊3日に変更。行軍終了後は三本木から汽車(現在の青い森鉄道線)で帰営するとしていた。しかし、隊員の大半が冬山に不慣れであったことに加え、猛吹雪などの悪天候を想定した雪壕を掘っての露営や背負子を用いた荷物運搬などを予備演習では実施しておらず、行軍本番は神田隊にとって2泊3日でも強行日程であった。行軍本番前に部下の藤村曹長、江藤伍長、伊東中尉を率いて経路の事前調査を行い、江藤伍長から紹介された田茂木野村の村長・作右衞門に「冬の八甲田の様子と行軍を成功させるために必要な装備など」についての説明を受ける[注釈 23]。また、汽車(現在の奥羽本線)で弘前の徳島大尉の自宅を訪ねて岩木山雪中行軍の情報収集を行い、八甲田雪中行軍の参考資料とした[注釈 24]。津村連隊長より「先に提出された徳島隊行軍計画書が受理され、三十一連隊の雪中行軍実施許可が出された」旨の電話連絡を受けると直ちに連隊長室へ赴き、(徳島隊の行軍計画書を山田少佐ら同席の下で閲覧したのち)「青森市内より田茂木野?田代?増沢経由の一本道で三本木へ向かう」とする自隊の行軍経路を津村連隊長・山田少佐らに説明。席上・津村連隊長より「本番での行軍隊編成はどうするか」について聞かれると、「(自分としては、徳島大尉より学んだ事項を踏まえて)極力少人数の小隊編成とし・道案内人も必要と考えるが、それらの可否は小峠までの予備演習結果をみて決める」と述べた。だが、作右衞門の説明・徳島大尉宅での勉強会で学んだ内容・予備演習の成果は雪中行軍本番に活かされず、上官の第二大隊長・山田少佐には「(『冬の八甲田は白い地獄だ』との話を地元民より聞いたため)田茂木野で事前に案内人を頼んだ」旨を報告しなかった。のちに(徳島隊の行軍計画書閲覧時に「小隊編成の三十一連隊長距離行軍は強引かつ無謀すぎるから成功するとは思えない」と皮肉り、「小峠までの予備演習結果は良好だった」旨の報告を神田大尉より受けた)山田少佐が雪中行軍の目的を「小隊編成かつ長距離の三十一連隊に勝つため」へとすり替え・「大隊を繰り出しても八甲田へ行ける」として本番直前に(自身の小隊編成要望を一方的に退けて)行軍隊編成を急きょ変更。(自身の当初計画になかった想定外事項として)山田少佐率いる大隊本部が(「今後の寒地教育指導&訓練体制確立を目指すための雪中行軍研究」を目的に)「編成外」として行軍に随行することとなり、本隊は「自身率いる五中隊を主力とした・五連隊全体が参加する中隊編成」へと変わったことで、行軍本番は予備演習時とは180度異なる条件となり・参加人数が「(自身が希望した当初の小隊規模から一方的に組み替えさせられ)行軍本隊196名・随行大隊本部員14名の計210名。(食糧・燃料・炊事道具・寝袋などを積んだ)行李輸送隊ソリ8台」へと大きく膨れ上がった[注釈 25]。本番前は毎晩遅くまで自宅で行軍隊編成計画作成に没頭。徳島大尉より速達で届いた手紙も読み「徳島隊が1月20日に弘前を出発する」旨を知った[注釈 26]。本番前(予備演習終了後)に「(自分宛ての手紙が兄の斎藤伍長から届いたため)青森市内の叔母の家へ行きたいので外出許可がほしい」と申し出た従卒の長谷部一等卒には、外出許可を出す際「(行軍本番前調査に同行した)藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉を中隊長室へ呼ぶ」よう言い、徳島隊出発前日に「本番での行軍隊編成最終決定版」を(藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉に)説明した。席上「五連隊全体が行軍に参加する中隊編成は良いと思う。だが大隊本部随行は編成外の参加とはいえ、『中隊指揮権を持つ中隊長殿の上に・もう一つ上部機関がくっつく』ことになるから、船頭多くして船山に登る(神田中隊長殿・山田大隊長殿相互間で指揮権奪い合いが起きて命令系統が曖昧になる)事態を招きそうで不安だ」との訴えが藤村曹長らより出たが、徳島隊出発日が迫り自隊も本番まで時間がなかったことから「自隊の出発が遅れれば、事前に決めた『徳島隊と八甲田ですれ違う』約束を守れなくなる」と焦りの色を濃くし、山田少佐の言いなりになる形で「大隊長殿には大隊長殿のお考え(『小隊編成かつ長距離の徳島隊に勝ちたい』との強い思い)もあるようだ」として部下からの声を一切聞き入れず、「自身率いる五中隊が根幹の主力という柱を維持しつつ、たとえ2個や1個小隊になったとしても行軍に最適となる参加者人選を急ぐ」よう藤村曹長らへ一方的に(トップダウンで)命じた。このため部下は「本番で指揮系統が乱れる(指揮官が事実上2名となり、山田大隊長殿・神田中隊長殿どちらの命令に従えば良いのか迷ってしまう)不安」と「自分たちの意見・要望が上司に受け入れてもらえない不満」がくすぶった(解消されない)まま、「不完全燃焼」・「(余裕のない準備期間からくる)事前準備不足」・「(結果として冬山の知識に乏しく、雪を軽視する隊員が大半を占めてしまう)急ごしらえの参加者選考」・「(雪中行軍するにはあまりにも多すぎる)過剰な参加人員と大荷物」状態で雪中行軍本番を迎える形となり、これが悲劇(世界最悪の大量遭難による五連隊全滅)のきっかけとなっていく。こうして「五連隊雪中行軍計画書」は(徳島隊出発当日に)山田少佐によって津村連隊長へ提出・決裁され、雪中行軍実施許可が出された。連隊長室で行われた結団式では自身が(本隊に属する)各小隊長の名を・山田少佐が随行大隊本部員代表の名をそれぞれ読み上げ、津村連隊長より「行軍隊・随行員計210名の中から、たとえ一人といえども落伍者その他を出さぬよう万全の準備をすべし」との訓示を受ける。結団式後は「参加隊員の役割分担」・「凍傷を引き起こさないための注意事項(服装や携行品など)」の説明を部下(各小隊長と見習士官)に行った[注釈 27]。出発前夜は妻・はつ子に「携帯懐炉[注釈 28]を余分に5・6日分用意する」よう要請。従卒の長谷部一等卒も(外出許可を得て叔母の家へ行ったものの兄・斎藤伍長とは会えなかったため、兄からの『雪中行軍に参加すべきでない』伝言を叔母より受け取ったのみで、その後やむを得ず足を運んだ)自身の家(神田大尉宅)で風呂を沸かす手伝いをしつつ・出発前夜まで行軍本番前準備をし、自身には「小峠(までの予備演習)はまるで雪の中の遠足だったから、雪中行軍なんて(本番も)大したことない。本番は八甲田で三十一連隊とすれ違う旨の噂を聞いたので、自分が行軍に出れば久々に兄(斎藤伍長)に会える」と述べて行軍参加に前向きな姿勢を示し、(「もし冬の八甲田が恐いと思うなら行軍に参加しなくても良い」と自身が言っても「兄は心配性なだけ。従卒の自分が行軍に出なければ中隊長殿に失礼になる」として)「自らの意思で行軍に参加する」旨を強調した。雪中行軍本番当日(1月23日)、神田隊は午前6時55分に青森市内の屯営を出発したが、部下の不安は案の定的中。計画段階から大隊長の山田少佐と行軍隊編成規模・案内人雇用&大隊本部随行の是非・指揮権などを巡って対立した挙句、途中の田茂木野以降は(津村連隊長への行軍計画書提出時に「中隊指揮は一切神田大尉へ任せる」と述べ、本来は随行のみで指揮権を持たないはずの)山田少佐に全体の指揮権を奪われ、意見具申もほとんど却下。山田少佐の方針により「道案内人なしで(手元の地図と方位磁石を頼りに)猛吹雪の八甲田へ突入する」[注釈 29]不完全燃焼状態での行軍となった。また(麓の田茂木野までとは天候が180度一変し猛吹雪となった)大峠では、永野三等軍医に「八甲田付近での天候悪化が予想されているため、行軍を中止し帰営すべき」と進言されるも(行軍続行を強力主張する)大隊本部の下士官(進藤特務曹長・今西特務曹長・田村見習士官・井上見習士官)に「天候が変わりやすい山の上は突然の吹雪が当たり前(日常茶飯事)。兵卒・下士卒と我々大隊本部員は防寒装備を十分整え保温もきちんとできているから、ここで行軍中止では雪中行軍の計画・準備が無駄になる。行軍がこれ以上続行不可能とは思えず、たとえ作戦遂行が不可能な状況に陥っても・それを可能にするのが我々の任務だ」と反対され、(自身が何も言えない不完全燃焼のまま)山田少佐に「悪天候でも予定通り田代に行く」と勝手に出発命令された。ソリ隊は「(参加人数が大きく膨れ上がり)予備演習時とは比べ物にならない大量の重い荷物を引かされた」ため(ソリをなかなか前へ進められず・摩擦抵抗が増して大汗をかき)体力を消耗。屯営から平坦な道だった幸畑を過ぎた時点で既に本隊より遅れ始め、田茂木野以降での小休止時間が(ソリ隊到着を待つ関係で)予定より延びて「行軍全体の遅れ」と「田代到着前に日没を迎える事態」につながっていく。田茂木野を出発し小峠が近づくと・上り坂がきつくなり積雪量が倍増したことから、先頭かんじき隊による行軍経路開拓が困難となってソリの横滑りも頻発。ソリ隊は本隊より後方へ2km以上もずるずる引き離されて遅れがますます大きくなり(2時間以上にまで広がり)、1台80kg・総勢210人分の重い荷物を積んだソリ8台の牽引&後押しを担う隊員は(重い荷物と深い雪による摩擦抵抗でソリが前へ進まず)疲労が増していった(ソリ牽引時にかいた汗はやがて激烈な寒さで凍結し、濡れた下着を貫いた冷気により凍死する隊員が続出する[注釈 30])。自身は大峠に近づいた時点で「遅れているソリを放棄し、荷物は各隊員に持たせたい。重いソリをこのまま動かすと中隊の動きが遅れる」旨の意見具申を山田少佐にしたものの、「今は難中だが、積雪の状況その他で楽になる可能性もある。ソリの放棄はいよいよ駄目な場合だ」と退けられてしまう。結局日没後に平沢手前で立ち往生するまで(本隊より援護班を送りつつ)重いソリを動かす形となり、ソリ隊員とその援護隊員は多大な負担を背負う羽目になる。小峠で小休止後は江藤伍長を先頭に立たせて「前方偵察」を命令。自身も江藤伍長の後を追いつつ(猛吹雪の中で)手元の地図と方位磁石を確認し、「(田代方面への)針路は右手である」旨を藤村曹長へ指示。賽の河原が近づくと「これより賽の河原を一気に越え、中の森・按の木森を経て馬立場を目指す」旨を部下に告げて出発命令。途中では先頭のかんじき隊を交替させると共に、ソリ隊の遅れ(もともと割り当てていた1台につき4人・8台合計32人の行李輸送隊員のみではソリを前へ進められない事態)を察知し・大峠?賽の河原?馬立場間において中橋中尉率いる小隊へ「(遅れている)後方ソリ隊の援護に付く」よう命じた。だがソリ隊の遅れは回復せず(逆にますます大きくなり)、本隊の馬立場到着後に再度「2km以上も後ろにいて大きく遅れているソリ隊の援護」へ(第1陣の中橋小隊に加え)鈴森少尉率いる小隊と下士卒30人以上を(銃・背嚢などの手荷物をこの場に置かせ身軽にさせたうえで)ソリ援護班第2陣として追加派遣。同時に藤村曹長ら15名の隊員を(宿営を手配させるための)先遣隊として田代に向かわせたが[注釈 31]、先発隊は猛吹雪と暗闇で道に迷い田代へたどり着けず、結局(伊東中尉と高橋伍長が援護していた)ソリ隊の最後尾へ合流。ソリ隊は(自身率いる中隊到着から)1時間後に馬立場へ着き本隊と合流できたものの、その先は(先頭かんじき隊がバラバラになって機能不全に陥り行軍経路開拓が困難となったため)途中の平沢手前で立ち往生してしまい、以降はソリを棄てて荷物を各隊員が持つ方針へ変更。「藤村曹長率いる先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを野口見習士官より知らされた山田少佐の命令で・自身が将校偵察として田代へ斥候しても先へ進めず(ソリ隊の大幅遅れで田代到着前に日没を迎え、山田少佐率いる本隊と大隊本部は先頭の自身に追いつけず立ち往生し)、ついに平沢で(想定外の行動となる)雪濠を掘っての途中露営を余儀なくされた[注釈 32]。だが、山田少佐が「翌朝までに全員が凍傷で立ち往生する事態」を危惧し、「今すぐ帰営は万やむを得ない場合の話で、夜明けを待って出発すべき」とする自身の反対を押し切って・夜明けを待たず深夜のうちに「帰営のため出発命令」したのをきっかけに、一行は(「睡眠不足と空腹」にあえいだまま)真っ暗な鳴沢付近で道に迷い(方向感覚を失う「リングワンダリング」状態に陥り)丸3日延々と彷徨った末、隊員は激烈な寒さ・極度の睡眠不足・空腹・疲労蓄積により雪上へ次々と倒れていく。
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