八甲田山_(映画)
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雪中行軍隊の到着の報に一瞬安堵したが、それが弘前第三十一連隊だったと知って、第五連隊長は全連隊に集合をかけた。第五連隊から行方不明になったとの報を受けた弘前第三十一連隊本部は雪中行軍の中止を決断したが徳島大尉に連絡する術がなかった。

1月27日、賽の河原で神田大尉から先に田茂木野に向かい救援を依頼するように命じられていた江藤伍長を、第五連隊本部から来た遭難救助隊が大峠付近で発見し、第五連隊本部並びに師団本部に第五連隊雪中行軍隊遭難の報が入る。しかし第三十一連隊雪中行軍隊はすでに八甲田山に突入していた。第三十一連隊行軍隊は過酷ながらも順調に八甲田を進むが、道中、斉藤伍長の弟である長谷部一等卒(神田大尉の従卒)の遺体を発見する。これで第五連隊行軍隊の遭難を知るが、徳島大尉は不安を押し殺して行軍を続け一気に八甲田の踏破を目指した。猛烈な風雪にたじろぐが前進して行った。困難な行軍の途中、賽の河原にて徳島大尉は、多数の第五連隊行軍隊員の死体を発見する。その中に神田大尉を発見する。遭難の責任を取り、神田は舌を噛み切って雪中で自決していたのだった。冷たくなった神田大尉の顔に、生前の彼の笑顔が重なり、八甲田までの苦労をねぎらう言葉を徳島にかけてくるように見えた。既に逝った男の前で、徳島は幻の再会を果たした。

悲しみと衝撃を受ける徳島大尉だったが、無事に八甲田山を突破、雪中行軍を成功させる。1月29日午前2時に田茂木野に到着する直前、道案内人たちにその労をねぎらい、手当を渡してから「八甲田で見たことは今後一切喋ってはならない」と忠告するのであった。その後に青森第五連隊の遺体収容所に行き、徳島は、収容された神田の遺体と対面。だが第三十一連隊行軍隊が賽の河原に到達する以前、既に第五連隊本部が神田を含む第五連隊行軍隊員の遺体を収容していたことを知り愕然とする。神田の霊が雪中で徳島を待っていたのか、それともあの再会は過酷な寒さによる徳島の幻想であったのか。徳島は神田の妻はつ子(栗原小巻)から、神田大尉が徳島との再会を楽しみにしていたと聞かされ、「会いました。間違いなく自分は賽の河原で会いました」と言って泣き崩れるのであった。

弘前第三十一連隊雪中行軍隊は負傷者1名を三本木から汽車で弘前に帰した以外は全員八甲田を無事踏破し生還を果たした。一方青森第五連隊雪中行軍隊は大隊本部の倉田大尉(加山雄三)の引率の下、12名しか生還(内1名は生還後に死去)することができなかった。その中には人事不省のまま生還した山田大隊長もいたが、彼は遭難の責任をとり、拳銃で心臓を撃ち抜き自決する。徳島大尉以下の面々と第五連隊で生還した倉田大尉は、2年後の日露戦争黒溝台会戦において零下20度の厳冬の中を戦い抜き、全員戦死。その犠牲は後の奉天会戦での日本軍の勝利に結び付いた。

やがて時が流れて平和な時代が訪れた。青森ねぶた祭の歓声に沸く頃、杖をつきながらロープウェーに乗り、八甲田の自然を窓から静かに眺める一人の老人がいた。青森歩兵第五連隊雪中行軍隊で生き抜いた村山伍長であった。彼は草木に覆われた穏やかな景色の中、八甲田山系の山々をただただ見つめていた。
出演者
弘前歩兵第三十一連隊
雪中行軍隊
徳島(とくしま)大尉
演 -
高倉健、石井明人(幼少期の回想)第一大隊第二中隊長。青森県南津軽郡石川町(現在の弘前市の一部)乳井出身。自宅が弘前市富田、養母が黒石市北田中に居住している。岩木山で雪中行軍の経験があり、冬山、寒冷地、積雪地における行軍を成功させるための様々な工夫を行う[注釈 2]。これが「装備を軽くした少数精鋭編成」へ結びつき、第三十一連隊の八甲田山雪中行軍を一人の落伍者も出すことなく成功させることにつながった[注釈 3]。日没時には現地の民家で宿営して寒さと暴風雪をしのぎ、睡眠および休憩時間・食事も十分確保して疲労による落伍を防ぐ工夫をした。青森歩兵第五連隊の神田大尉とは、第四旅団司令部における「雪中行軍作戦会議」で「天候に恵まれた一度や二度の経験は何の役にも立たない」「悪天候など万一の事態に遭遇しても命を守る備えを確実にする」などの助言をしたり、自宅へ招いて岩木山雪中行軍の内容学習を行い[注釈 4]、「大人数では指揮官の目が隅々まで行き届かず・隊列維持および指示命令&注意事項の伝達が困難となり遭難の危険性が高まるので・少人数の小隊編成で命令系統を一本化し、冬山の経験と知識が豊富で体力のある者のみを厳選した少数精鋭主義」「自分たちで装備・宿営用具(食糧・炊事道具・寝袋・燃料など)を運べば負担が増し行軍全体に遅れが出るので、装備は極力軽くする。宿営は原則民泊とし、食糧・燃料などの消耗品は宿営地で地元住民より提供してもらう」「吹雪の中では目標把握が困難で方位磁石や地図が役に立たないので、地元に土地勘がある案内人を雇う」「事前準備期間は十分確保し、特に寒さ対策を怠らない」「出発前および本番中は気象情報収集を怠らない。悪天候や日没で目的宿営地への到着が遅れそうな場合は出発地か前日の宿営地へ引き返す・または途中で雪濠を掘って露営するなど寒さをしのいで命を守る工夫をし、決して無理せず余裕ある行軍計画を立てる」「万一道に迷ったらむやみに動き回らず・雪濠を掘って露営するなど体力温存に努める。日没時も暗闇でむやみに動き回らずその場にとどまり、出発は翌朝の天候回復まで待つ。救助要請をした時は動き回らず、救助隊員に見つけてもらえるよう生存の意思表示をする」「暴風雪など天候の悪化が予想される場合は行軍自体を中止する、および途中で行軍日程を切り上げ引き返す勇気を持つ」といった雪中行軍の心構えを説いている[注釈 5]。一時は八甲田山での雪中行軍の中止を具申することも考えていたが、旅団長の実質的な命令、三十一連隊長と五連隊長の約束事から、八甲田山雪中行軍の徳島隊の指揮官として、「弘前出発後・小国?十和田湖?中里?三本木?増沢?八甲田?田茂木野?青森経由で弘前へ戻る10泊11日・全長240km行程」で雪中行軍を計画・実施する。行軍本番1か月前には経由地の町村役場へ「消耗品・食糧・宿営地の提供や案内人雇用などへの協力を求める手紙」を出すと共に、部下(佐藤一等卒と小山二等卒など)に対し「行軍経路の下調べ、現地での案内人手配、宿営地や糧食・消耗品の調達交渉、および凍傷低体温症防止方法など・地元住民からの各種情報事前収集を年末年始休暇返上で行う」よう命じた。徳島隊結団式では隊を構成する27名全員が出席したうえで「水筒の水は(満水にせず)七分目まで入れ、絶えず動かしていれば凍らない[注釈 6]。人間の体もそれと同じだ。たとえ小休止といえども足の指は靴の中で動かし、手袋をはめた指も必ず動かす」と行軍時における注意事項を訓示するなど、凍傷の危険性や、飲料水や糧食の凍結防止について十二分に説明を行った[注釈 7]。本番1週間前には神田大尉に宛てた手紙を速達で出し、徳島隊の経路で困難な区間[注釈 8]を明らかにしたうえで、五連隊の神田隊に「最も遭難の危険性が高い区間」を暗示した。雪中行軍本番の1月20日、徳島隊は午前5時に弘前の屯営を出発し、軍歌の雪の進軍を斉唱するなどして隊の士気を高めた。隊員には「行軍中の勝手な行動の一切厳禁」「防寒着の装着などは自身(徳島大尉)の指示・命令が出てから行う」ことを徹底させた。凍傷・低体温症防止には足踏みと手指の摩擦や、足先保温のため藁の雪沓の使用・油紙で足を包み靴下に唐辛子をまぶす・厚手靴下を三重に履かせるなどの処置を行わせた。小国と切明(現在の平川市)で宿営・小休止をしたのち、白地山・元山峠経由で十和田湖畔の銀山(現在の秋田県鹿角郡小坂町)へ向かう際には暴風雪の兆しをいち早く察知し、耳当て着用・厚手手袋の二重着用・襟巻き(マフラー)を巻くことを隊員へ指示している。宇樽部(現在の十和田市)で宿営後、中里(現在の三戸郡新郷村)へ向けて犬吠峠を越える際には、隊員全員を荒縄で一列に結び、滑落と視界不良による落伍を防いだ。中里では案内人と別れたのちに、地元住民からの「家に泊まらないか」との誘いを断って集落近くの空き地に雪壕を掘り、一夜を明かす夜間耐雪訓練を実施している[注釈 9]三本木(現在の十和田市)到着時に予定通りであれば神田隊が三本木に到着しているはずだが、五連隊の本部にその報告が入っていないとの連絡を三十一連隊の門間少佐より(三本木の宿の主人を通じて)受け取るが、悪天候などで遅れることはあると考えて、自身は神田隊が消息を絶っているとは思っていなかった。次の宿営地である増沢でも神田隊の姿はなく、八甲田山への出発前に神田大尉を心配する。八甲田山の増沢(現在の十和田市)から田代(現在の青森市)へ至る経路では、現地で雇った案内人に従って行軍し[注釈 10]、田代温泉への道は猛吹雪で見つけられなかったものの、道中は雪壕による露営などで隊の損耗を抑えた[注釈 11]。田代出発直後に斎藤伍長が弟・長谷部善次郎一等卒の遺体を見つけ「弟の亡骸を背負って帰りたい」と懇願されると、「(亡き弟と一緒に帰りたい)気持ちはよく分かる。だがこの先・田茂木野まではまだまだ難関があるため、弟を背負った斎藤伍長が倒れればそれを助ける者もまた倒れ、我が三十一連隊は全滅する。弟の遺体は後日救助隊が収容に来るから、今は静かに眠らせておいてやれ」と慰留し「自隊の安全を最優先する[注釈 12]」旨を強調。のちに参加者全員が長谷部一等卒の遺体に黙祷を捧げた[注釈 13]。一行が猛吹雪の八甲田を踏破し田茂木野村(現在の青森市)へ着くと(案内料を支払って案内人と別れたのち五連隊の捜索隊現地指揮本部へ立ち寄り)、「自隊(三十一連隊)は負傷のため三本木より弘前へ途中帰営させた松尾伍長を除く全員が猛吹雪の八甲田を踏破。鳴沢から賽の河原にかけて神田大尉を含む五連隊の隊員の複数の遺体を発見[注釈 14]した」旨を五連隊捜索隊指揮官の木宮少佐へ報告。しかし、実際には神田大尉らの遺体は前日の時点で既に収容されており、田茂木野に設けられた「五連隊雪中行軍遭難犠牲者の遺体安置所」で(本来八甲田山中で会うはずだった)神田大尉の遺体と悲しみの対面をする形となった[注釈 15]。三十一連隊が八甲田雪中行軍を無事成功させた旨は「五連隊大量遭難」に霞み大きくは報じられなかったものの、その後の「寒地訓練確立と寒地対応装備の開発」へと活かされている。モデルは福島泰蔵大尉。
田辺(たなべ)中尉
演 - 浜田晃行軍本番中は徳島大尉の指示を復唱し、隊員に指示が行き届くようにした。中里の集落では案内人を最後尾に置くことを上申するが、徳島大尉に却下されている。
高畑(たかはた)少尉
演 - 加藤健一行軍本番前の「三十一連隊雪中行軍隊結団式」では、経路の事前調査と宿営地・案内人などの交渉を担当した佐藤一等卒と小山二等卒からの報告内容をメモする。行軍本番では小国から琵琶の平を経て切明への行軍中「後尾に付け」と徳島大尉に命ぜられ、隊列の最後尾に付く。
船山(ふなやま)見習士官
演 - 江幡連気象観測を担当する見習士官。銀山から宇樽部までの行軍中に実施した気象観測では「気温が6度も急降下し風も急に強まってきているので、これは本格的な大暴風雪の前兆ではないか」と徳島大尉に報告する。なお行軍中は「風向・風速を測るための吹き流し付き竹棒」と「積雪の深さを測る竹棒」をそれぞれ背嚢に固定すると共に、現在地の気温を測る温度計を携帯している(気温は「手元の温度計で測った温度」と「体感温度」の2種類を測定・報告)。また、足を捻挫した松尾伍長を背負う川瀬伍長の銃を持つように徳島大尉に命じられた。
長尾(ながお)見習士官
演 - 高山浩平隊員の疲労度調査を担当する見習士官。
倉持(くらもち)見習士官
演 - 安永憲司装備点検を担当する見習士官。宇樽部での宿営時は翌日に控えた犬吠峠越え行軍に備え、参加者全員が「濡れた軍服・下着・靴下・軍靴を干して囲炉裏の火で乾かすこと」と「かんじき・藁の雪沓・服装などの損傷の有無の点検」を自主的に励行したり、装備や服装に損傷があるときは新品を購入するなどした[注釈 16]


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