八王の乱
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ところが呉楚七国の乱を契機として宗室抑制政策が採られ、諸侯王は領国において中央が派遣した国相(後漢)・監国謁者(魏)などの厳重な監視下に置かれ、その政策は後漢において強化された。

魏の末期、兄の司馬師の後を継いで晋王の地位に就いた司馬昭は、自己の一族を各地に封じて魏までの幽閉同様の待遇を大幅に向上させた。さらに彼らを都督に任じて要地に駐屯させ、や北方民族に対抗するための軍権の一部を授けた。都督は魏の時代にも置かれていたが、強力な軍権ゆえに王??丘倹諸葛誕のように司馬氏に対して叛旗を翻す者が相次いだ。反面、司馬氏も司馬懿が都督として諸葛亮の北伐を防いだことで権力掌握のきっかけを築いた地位でもあった。そのため、晋では都督に一族を任じることでその反乱を防ぎ、かつ呉や北方民族に備えようとしたのである。だが、一族に軍権を与えた事が、八王の乱を招くきっかけとなったのであった。
八王の乱の経過
発端

武帝は呉の平定以降、天下統一を成し遂げた事に安心し、次第に政務を蔑ろにして酒色に溺れるようになり、皇后楊?の父である楊駿が代わって政務を取り仕切るようになった。彼は自らを支持する者を取り立てて多くの旧臣を遠ざけ、弟の楊?楊済と共に権勢をほしいままにするようになり、彼らは『天下三楊』と称された。楊?・楊済はかねてより声望があって才能も有ったが、楊駿には何の才能も無くただ外戚という理由だけで権力を握っていたので、官僚からは忌み嫌われていた。

太康10年(289年)11月、武帝が病に倒れると、死を悟った彼は楊駿と大叔父である汝南王司馬亮の二人に後事を託そうと考えたが、楊?は武帝の遺詔を『楊駿一人に全てを託す』という内容に書き換えた。太熙元年(290年)3月、武帝が崩御して皇太子司馬衷(恵帝)が即位すると、楊駿の権勢はさらに振るい、遂には皇帝の住居に住まうようになった。だが、朝廷では失政を連発し、多くの忠臣の諫めにも耳を貸さなかったので、内外から怨嗟の声が集まるようになった。
1.291年3月:楊駿殺害

恵帝の皇后賈南風は陰険で策謀を好む人物であり、かねてより朝廷で好き勝手に振る舞う楊駿の存在を非常に疎ましく思っていた。また、もともと楊駿の娘である皇太后楊?とも折り合いが悪かった。その為、彼女は楊氏一派の誅殺を決断し、側近の宦官董猛・殿中中郎孟観・李肇と結託して政変の計画を進め、さらに荊州にいる楚王司馬?を呼び寄せて仲間に引き入れた。

永平元年(291年)3月、孟観と李肇は恵帝の下へ赴いて楊駿の謀反を訴えると共に、詔を作り上げて楊駿の罪をでっち上げ、宮中の兵に楊駿捕縛を命じた。楊駿は異変を知ると馬厩に逃亡するも殺され、楊氏は三族皆殺しとなった。楊?は庶人に落とされて金?城に監禁され、後に殺害された。
2.291年6月:司馬亮・衛?・司馬?殺害

楊氏一派が粛清されると、汝南王司馬亮太保衛?が朝政を司ることになったが、彼らは賈氏を警戒してその権限を抑え込んだので、賈南風はこれに不満を抱いた。また衛?については、武帝の時代に恵帝の廃嫡を進言した事があったので、特に強い恨みを抱いていた。そんな中、衛?と対立していた司馬?配下の岐盛が密かに「司馬亮と衛?は皇帝廃立を企んでいる」と嘘の情報を流すと、遂に賈南風は司馬亮らを除く事を決めた。

同年(元康元年)6月、賈南風は恵帝に詔を作らせ、司馬亮と衛?の逮捕を司馬?へ命じた。司馬?はこれに従って公孫宏と李肇に司馬亮府を包囲させ、清河王司馬遐に衛?の逮捕を命じた。司馬亮は李肇に捕縛されて殺害され、衛?もまた司馬遐に捕らえられて誅殺された。夜が明けると、太子少傅張華は賈南風の下へ赴き、独断で司馬亮・衛?を殺害した罪で司馬?を誅殺するよう進言した。賈南風は司馬?が権勢を握る事を危険視していたのでこれに同意し、今回の政変の罪を全て司馬?に擦り付けた。これにより、司馬?は謀反の罪で捕らえられて処刑された。
賈氏の時代

こうして、賈南風はその一族と共に天下をほしいままにする様になり、近臣が重職に就くようになった。特に甥の賈謐・大伯父の郭彰の権勢は皇帝を凌ぐ程であり、当時の人は賈謐と郭彰を併せて『賈郭』と呼び従い、群臣の度を越えた追従の様子から『後塵を拝す』という故事も生まれたという。賈謐と郭彰の屋敷は臣下の身分を越えた豪華さであり、自宅で宴会を催すと国中から人が押し寄せる程であった。また、賈南風の淫虐は酷く、外で若い男を見つけると宮中に招き入れて行為に及び、事が済むと口封じの為に殺されたという。ただ、賈南風は政事については介入せず、張華・裴?賈模といった人物に全て委ねており、彼らは賢臣であったので力を合わせて国政を大いに安定させる事に成功した。
3.299年12月 - 300年3月:皇太子暗殺

皇太子司馬?の母は淑妃(側室)の謝玖であり、賈南風の実子では無かった。その為、賈南風はかねてより彼の存在を快く思っていなかったが、賈南風には男子が生まれなかった。そこで彼女は秘かに妹の賈午の夫である韓寿の赤子を宮中に入れると、これを自らの子として司馬?に代わって皇太子に立てようと目論んだ。当時、賈南風が司馬?を廃そうとしているのは朝廷では誰もが知る所であり、重臣たちの間では密かに賈南風の廃位が幾度も議論されたが、結局実行には移されなかった。

元康9年(299年)12月、賈南風は司馬?に酒を飲ませて酩酊状態に陥らせ、恵帝と賈皇后を廃するという内容の文章を書かせた。そして黄門令董猛を介してこの文章を恵帝に見せると、恵帝は司馬?へ死を下賜すると宣言した。だが、重臣の張華と裴?は文章の偽作を疑って頑なに反対し、賈南風も張華らへは一目置いていたので、ひとまず処刑を諦めて庶人に落とす事を決めた。永康元年(300年)1月、賈南風は宦官の一人に、司馬?と謀反を図ったと嘘の発言をさせて自首させ、司馬?を許昌宮に幽閉した。3月、かつて東宮(皇太子の住む宮殿)に仕えていた右衛督司馬雅・常従督許超は司馬?復位を目論み、強大な兵権を握る趙王司馬倫に賈南風廃立の協力を要請した。司馬倫は一度はこれを快諾したが、腹心の孫秀はあえてこの謀略を賈南風に漏らす事で司馬?を殺害するよう仕向け、これを大義名分として賈南風を廃して政権を掌握するよう勧めると、司馬倫は同意してこれを実行した。かくして賈南風はこの賈南風廃立と司馬?復位の計画を伝えられると驚愕し、黄門孫慮に命じて司馬?を殺害させた。
4.300年4月:賈南風殺害

4月、司馬倫は孫秀・右衛?飛督閭和・梁王司馬?・斉王司馬冏と共に司馬?の仇を討つ事を大義名分として政変を決行し、恵帝の詔と称して近衛軍に傘下に入るよう命じ、さらに司馬冏に命じて百人を率いて宮中に入らせた。賈謐は異変に気付いて逃げようとしたが、兵士に囲まれてその場で殺された。賈南風も捕らえられ、庶人に落とされて金?城に監禁され、賈氏一族も尽く捕らえられ処刑された。数日後、司馬倫は偽の詔を発し、尚書劉弘に金屑酒(金粉入りの毒酒)を金?城に届けさせて賈南風を自害させ、司馬倫に恨まれていた重臣の張華と裴?も殺害された。こうして賈氏一族の時代は終わりを告げた。
5.300年8月:司馬允殺害


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