八尾市
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1985年撮影の8枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
大阪府


大阪市

平野区


柏原市

東大阪市

藤井寺市

松原市

奈良県


生駒郡平群町

生駒郡三郷町

歴史
古代

旧分国では河内国に属する。古代においては河内湖がこの付近まで広がっていたと考えられている。旧大和川流域の肥沃なデルタ地帯として、弥生時代から耕作が行われていた。古墳時代には多くの豪族がこの地一帯に勢力を維持し、生駒山地の麓に数多くの陵墓を造築した。その多くが現在でも古墳として残っており、その数の多さから千塚(ちづか)という地名として残っている。

飛鳥時代には、一帯は物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされている(またそのことが市名の由来となっている)が、物部氏物部守屋のときに蘇我馬子とこの一帯で戦い敗れたために滅亡した。物部氏傍系一族の弓削氏、来栖氏、矢作連などは引き続きこの一帯で勢力を維持し、特に弓削氏の道鏡は奈良時代後期の日本における実質的な最高権力者となっている。道鏡は当地(現在の中田・八尾木地区あたり)に西京(由義宮)を造築したが、失脚とともに歴史に埋もれてしまい、現在でも遺構は判明していない。

朝鮮半島での白村江の戦いで敗北した大和朝廷の侵攻に備えるために西日本で古代山城などの防御施設の整備を進め、この時高安山にも高安城が築かれたとされる[3]1978年に高安山頂から東へ約200m下ったところで遺構(高安城倉庫址礎石群)が検出され、後に壬申の乱以降に再建された高安城の倉庫であると判明[3]。しかし、1999年の調査で高安山頂の北西約300mの場所で花崗岩を二段積みした石垣がおおよそ100m続いているのを検出。その後の調査などから城壁の高さは10mを越えるものであり、高安山の西側に張り出した尾根の先端を平坦に整地してあり、その周囲に石垣が構築されていたことがわかっている。
中世・近世

奈良時代以降、この地一帯は難波大和国を結ぶ中継地として栄え、渋川道(→竜田越奈良街道)、十三街道などが設置され、さらに仏教の広まりとともに、寺院への参道として信貴道東高野街道などが設置された。

平安時代以降、平安京遷都により、都から遠いこの地域の文化は衰退し、かつてこの地域で勢力を保っていた氏族は衰退していった。この地域は多くの寺社や貴族の荘園となる。

戦国時代から江戸時代初期にかけて、この一帯は、たびたび合戦が繰り広げられる場所であった。初期に久宝寺[4]萱振で寺院を中心に寺内町環濠集落が形成され、時の権力に対抗する勢力の拠点となった。また、大坂夏の陣においては北の若江(東大阪市)、南の道明寺(柏原・藤井寺市)と並んで序盤の激戦地となった(八尾・若江の戦い[5]。江戸時代初期には浄土真宗の宗派対立を発端とし、八尾寺内町が創設され、現在の八尾市発展の基となった。

江戸時代中期、それまで八尾市域を貫流して淀川水系と合流する流路を形成していた大和川の付け替え工事が行われ、方面に流れるようになった[6]。これにより度々水害に悩まされていた状況が改善されると共に、大和川の付け替え後の川床は新田として新規農用地の開拓が進んだ。川床跡の砂地は木綿栽培に適しており[7]大坂という消費地が近かったため、商品作物としての木綿の栽培や農村工業としての紡績が盛んになり、全国でも有数の裕福な農村となった[8]
近代以降

明治以降は大阪だけでなく八尾も綿糸生産で繁栄したが、次第に外国産の安い綿花の輸入を求める声が紡績業界に強まり、ついに輸入綿花の関税が廃止され、八尾の綿花栽培は大正末期までに急速に衰えていった。その後は綿を生産していた農家や工場がブラシ生産に活路を見出し、いわゆる地場産業へと移り変わっていった。

1889年には大阪鉄道(現JR大和路線)、1924年には大阪電気軌道(現近鉄大阪線)が開通。交通・物流の便が良くなったため、大阪近郊の手ごろな住宅地、また工場地帯として開発されていった。戦後は道路網の整備も行なわれ、奈良街道に沿って国道25号が整備され、また、大阪万博開催に間に合わせるように大阪中央環状線大阪外環状線が供用開始された。かつては竜華地区に竜華操車場が設置され、物流の中継点となっていたが、その後の情勢の変化により廃止された。跡地は長らく放置されていたが、1997年以降にようやく再開発(大阪竜華都市拠点土地区画整理事業)が開始され、市立病院の移転をはじめ、多くの施設が建設されている。
行政区画の変遷

1948年昭和23年)4月1日 - 中河内郡龍華町八尾町久宝寺村大正村西郡村と合併して八尾市が発足。大阪府下14番目(泉佐野市と同日)。

1955年(昭和30年)2月1日 - 河内市(現・東大阪市)の一部(福万寺・上之島)を編入。

1955年(昭和30年)4月3日 - 中河内郡南高安町曙川村高安村を編入。

1957年(昭和32年)4月1日 - 南河内郡志紀町を編入。

年表

年月主なできごと
1948年(昭和23年)4月八尾市発足(八尾町、龍華町、久宝寺村、大正村、西郡村が合併)
人口64,431人・面積18.99km2
5月初代市長 脇田幾松 が就任
1950年(昭和25年)2月八尾市立病院(旧病院)開設
1951年(昭和26年)2月市役所庁舎(旧庁舎)完成、
八尾市歌を制定
1952年(昭和27年)11月教育委員会が発足
1955年(昭和30年)2月河内市の福万寺・上之島地区を編入
4月南高安町・高安村・曙川村を合併
人口94,694人・面積37.46km2
1956年(昭和31年)11月山本球場が近鉄から市に移管
1957年(昭和32年)4月志紀町と合併
人口97,674人・面積41.05km2
1958年(昭和33年)4月高安山一帯が金剛生駒国定公園に指定される
1962年(昭和37年)6月衛生処理場完成
1963年(昭和38年)4月2代目市長 大橋清治 が就任
1964年(昭和39年)4月松原市若林地区の一部を編入
人口147,090人・面積41.26km2
11月八尾市民憲章を制定
1965年(昭和40年)1月地域住民が玉串川沿道に植樹を開始
1967年(昭和42年)4月教育センター開設
1968年(昭和43年)4月市制施行20周年
1969年(昭和44年)11月アメリカ合衆国ワシントン州ベルビュー市と姉妹都市提携
12月国道170号大阪外環状線 供用開始
1970年(昭和45年)4月府道大阪中央環状線 供用開始
1971年(昭和46年)7月久宝寺緑地 開園
1974年(昭和49年)1月安中診療所開設
1975年(昭和50年)4月3代目市長 山脇悦司 が就任
1978年(昭和53年)1月市立図書館(本館/現・市立八尾図書館)開設
4月市制施行30周年
第1回八尾まつり 開催
12月保健センター開設
1979年(昭和54年)11月近鉄大阪線高架化事業完成、近鉄八尾駅前広場完成
1980年(昭和55年)11月地下鉄谷町線 天王寺?八尾南間開通
1981年(昭和56年)5月八尾西武開店。
1984年(昭和59年)7月八尾空港施設移転・整備 竣工
1986年(昭和61年)9月中華人民共和国上海市嘉定県(現・嘉定区)と友好関係議定書締結


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