八カ国連合軍
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イギリス軍は連合軍の中で三番目の規模であったが、大部分はインドからであり、海軍旅団、王立砲兵第12中隊、香港シンガポール砲兵隊、王立ウェールズ・フュージリア連隊第2歩兵大隊、ベンガル第1槍騎連隊、ラージプート第7歩兵連隊、パンジャーブ第24歩兵連隊、シク第1歩兵連隊、香港連隊、中国第1連隊、王立工兵隊と他の支援人員から構成されていた[13][14]
オーストラリア植民地

オーストラリア植民地のいくつかはイギリスの分遣隊を支えるために海軍と陸軍の分遣隊を送った。南オーストラリア州の海軍全て、砲艦MASプロテクターを派遣した[15]。オーストラリアは公式には八カ国連合軍には参加していなかったが、八カ国連合軍に物資や部隊を供給した[16]
インド

イギリスは10,000人の軍隊を提供したが、大部分はバルーチ族、シク教徒、グルカ、ラージプート、パンジャーブからなるインド軍であった[17][18][19]
ドイツ帝国義和団から鹵獲した旗を披露するドイツ東アジア第一歩兵連隊の将兵

ドイツ人宣教師が1897年11月に殺害された。その報復に、ドイツは海軍の根拠地と商業用の港として利用するために膠州青島を攻め落とした。青島を含む膠州湾租借地はドイツ帝国海軍によって統治され、占領された。駐屯軍は海軍砲兵中隊と海軍第三歩兵大隊で構成されていた。義和団の乱中の青島のドイツ人将校

義和団の乱が勃発したとき、第三海兵大隊はドイツの利益を守るために小団を青島から北京と天津に派遣し、一方大部分は青島に対する攻撃を防ぐために後方に残ったままだった。北京の公使館の包囲は、すぐにドイツと他のヨーロッパの軍隊により多くの軍勢を清国に派遣する必要があると確信させた。ドイツから最初に到着した軍隊は第一および第二海兵大隊であり、すぐに東アジア遠征軍も続いた。

しかし多くのドイツ軍は到着が遅れて治安維持しか役目を果たせず、1901年に帰還した。
フランス天津フランス租界を行進するフランス軍植民地歩兵。

インドシナのフランス軍はフランス領インドシナから派遣された。
イタリア王国

イタリア軍は当初は軍艦からの水兵で構成されていたが、後にイタリアから将校83人、軍隊1,882人、馬178頭を含むより大きな分遣隊が派遣された。
大日本帝国イギリス人司令官エドワード・ホバート・シーモア(英語版)指揮下の日本海軍陸戦隊。

日本は20,840人の軍隊だけでなく18隻の軍艦を含む連合軍の中で最大の軍隊の分遣隊を派遣した。全体のうち20,300人は山口素臣中将指揮下の第五歩兵師団で、残りの540人は海軍海軍陸戦隊であった。
ロシア帝国義和団の乱中のロシア軍

ロシアは主に旅順口区とウラジオストク港からの守備隊から構成された軍隊12,400人からなる日本に次いで二番目の規模の軍隊を派遣した。
アメリカ合衆国詳細は「中国救援遠征軍(英語版)」を参照義和団の乱中のアメリカ兵

アメリカでは、義和団の乱の鎮圧が「中国救援遠征軍」として知られていた[20]。アメリカは、主に1898年のフィリピン併合以来フィリピンにアメリカ軍が配置されていたため、義和団の乱鎮圧において大きな役割を果たすことができた[21]。包囲下の外国軍の中には、USSオレゴンとUSSニューアークからのアメリカ人海兵隊員と水兵56人がいた[21]。主な配置されたアメリカ軍の構成は、アドナ・チャフィー指揮下の第9歩兵連隊、第14歩兵連隊、第6騎兵隊、第5歩兵隊、海軍歩兵大隊であった[22][23]
影響八カ国連合軍の兵士およびヨーロッパの補充兵。

前述の八カ国の軍隊は1900年8月14日に北京を侵略して紫禁城も占領した[24]。西太后と皇帝と政府高官らは紫禁城から西安へ逃亡し、李鴻章を連合軍との和平交渉に派遣した。

研究論文でケネス・クラークは「北京獲得の後、連合軍は首都から略奪し、彼らがヨーロッパへ帰る途中で発見した多くの中国の遺産と共に紫禁城を略奪さえした。」と述べている[25]
残虐行為ロシア人に拉致された中国人

数えきれないほどの義和団だと疑われた人々が義和団の乱の最中やその後に斬首された。この出来事は短編映画の主題になった[26]

アメリカの海兵隊員は、ドイツ兵とロシア兵が女性を強姦したあとで彼女たちを銃剣で突いて殺害するのを見たと記していた[27]

北京では、ピエール・マリー・アルフォンス・ファビエ=デュペロン司教が、カトリック教徒が生き残るために必要最低限の生活必需品と50以下の銀の強奪を8月18日から26日まで許可する告示をしたと言われていたが、本人はそのような告示は出していないと否定した[28]

一方の義和団も残虐行為を行っていた。多くのキリスト教徒が義和団の乱の前に殺害された。義和団の乱の前や最中に殺害された正教徒の集団は中国の聖なる殉教者としてこの日に記念されている。
脚注[脚注の使い方]^ 木村靖二、岸本美緒、小松久男、油井大三郎、青木康、水島司、橋場弦、佐藤次高、株式会社山川出版社『詳説世界史 世界史B』(改訂版)山川出版社、2019年3月5日、323頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-634-70034-5


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