全権委任法
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この法律は立法府行政府に立法権を含む一定の権利を認める授権法の一種であり、単に「授権法」と呼ぶこともある[3][4][* 1]
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出典検索?: "全権委任法" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年2月)

前史

ドイツにおいて政府に対して広範な権限を付与する授権法は、帝政下の1914年の第一次世界大戦勃発にあたって制定されたものが始まりである。1918年の敗戦後の帝政崩壊を経たヴァイマル共和政期でも不安定な政情に対応するために1923年に二度制定されており、1931年の関税法も政府に命令権限を認める点で一種の授権法であった。しかし、いずれの場合も授権の範囲は限定されたものであり、国会(ライヒスターク)への報告が義務づけられたうえに国会による政府措置の破棄も可能であった[7]

戦間期世界恐慌後、深刻な不況・失業率の急増に対して対応できない議会に対し不信が高まっていた。ヒンデンブルク大統領は議会を重視せず、国家緊急権である大統領緊急命令(ヴァイマル憲法第48条)を多用することで政治運営を図った。1931年には発令された緊急命令の数が国会採択を上回り、1932年には60発令に対し、議会での立法はわずか5に留まっている[7]。こうした権威主義体制は、議会制民主主義に失望する大衆の支持を集めていった。これらのことは、既に全権委任法以前から反議会主義的な世論が形成されていたことを示している。
ヒトラー内閣「ナチ党の権力掌握」も参照

ヒトラーは政権を握った際、自らに独裁権を与えることを主張していた。1932年7月の選挙国民社会主義ドイツ労働者党(通称:ナチ党)は第一党となり、国防相であったクルト・フォン・シュライヒャーパーペン内閣への協力を要求した。この時、ヒトラーは自らの首相就任と全権委任法の成立を要求している。しかしこの時は妥協が成立しなかった。

1933年1月30日に成立したヒトラー内閣最初の閣議でも、一定の授権法制定が議題となった[8]。その後ヒトラーはまもなく国会を解散し、4年間の政権委任を訴える選挙キャンペーンを行った。この選挙中の2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーは大統領に要請し、「共産主義暴動の発生に対応するため」として、「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(de:Verordnung des Reichsprasidenten gegen Verrat am Deutschen Volke und hochverraterische Umtriebe)」の2緊急命令を布告させた。ヒトラー政府はこの二つの大統領緊急命令の権限で、国会議員を含む多数の共産党員・社会民主党員を逮捕・予防拘禁した。また州政府への命令権限を利用し、州政府を次々に掌握していった。選挙の結果、ナチスは288議席、連立を組む国家人民党は52議席を獲得し、過半数を獲得した。全権委任法制定を待つまでもなく、ナチ党はこの段階でほとんど絶対的な権力を手にしていた[9]

3月7日の閣議でヒトラーは、憲法の範囲を超える全権委任法の制定への意志を表明した[8]。ヒトラーは国会での採択に自信を見せ、「共産党の議員が国会に現れることはないであろう」「彼らはあらかじめ拘禁されてしまっているのだから」と続けた[10]。3月15日の閣議では、ナチ党員の内務大臣ヴィルヘルム・フリックから法案を内示し、3月20日には最終案を提示した。副首相フランツ・フォン・パーペン、経済大臣アルフレート・フーゲンベルクは国民会議による憲法制定条項を追加することで、ナチ党の権限を制約しようとしたが、国会議長ヘルマン・ゲーリングによって簡単に一蹴された。こうして閣議は全員一致で全権委任法に賛成し、次の国会に提出することが決定された[11]

この間、各州の地方政府ではナチ党によるクーデターが相次ぎ、次々にナチ党の支配下に落ちていった。3月9日には最後まで抵抗したバイエルン州政府が総辞職し、国家代理官フランツ・フォン・エップが就任した[12]
採択への道

3月21日、国会議事堂が全焼したために現在のブランデンブルク州に位置するポツダムフリードリヒ大王の墓所のある衛戍教会で、ヒンデンブルク大統領が列席する盛大な国会開会式が行われた(ポツダムの日)。この日の午後、ナチ党はいわゆる全権委任法、「民族および国家の危難を除去するための法律案」を国家人民党と共同で提出した[13]

この法律は5条の法律案であるが、内容は議会から立法権を政府に移譲し、ナチ政府の制定した法律は国会・帝国参議院(ライヒスラート)や大統領権限を除けば憲法に背反しても有効とする法律案である。つまり、非常事態を理由にして、為政者の権力濫用を拘束し国民の人権を保証する憲法を骨抜きにし、ナチスに逆らう者に「公益を害する者」というレッテルを貼り、人権を剥奪して弾圧するようなナチ立法を(憲法に反していても)有効とし、選挙を経ていないナチ行政府公務員に立法権まで与える法律案であった。

実質的な憲法修正の内容を持つ本案は、本来は可決には総議員の2/3以上の出席を得た上で、出席議員の2/3以上の賛成を必要とした。ヒトラー与党は過半数の議席を得ていたが、2/3には足りなかった。そこでナチスは連立与党の国家人民党、鉄兜団などの協力で議院運営規則の修正法案を同時に提出していた。この修正案は、委員会や投票に参加しない議員の会議への出席を排除できた上に、排除された欠席議員は全て出席したもの(棄権扱いで、採決の分母から除外)と見なして計算することを可能とするものであった。既にドイツ共産党議員(81議席)は全員が「予防拘禁」、あるいは逃亡・亡命を余儀なくされ、一人も出席できない状態であった。あとは中央党の同意さえ取り付ければ、「円満な採択」が可能な状態となった。

3月22日の午後4時から、ヒトラーと中央党党首ルートヴィヒ・カースの会談がもたれた[14]。カースは執行段階での大統領関与の保証、監視委員会の設置、委任法からの除外項目の画定という三つの条件を提示した。これに対しヒトラーは大統領と自分が対立することはあり得ず、監視委員会は内閣の内に設けると回答し、さらに中央党の支持基盤である教会との関係や教育政策は対象とならないとした上で、州の権限に対する侵害は考えていないと回答した[14]。カースはこの意見を持ち帰り、翌3月23日の午後1時から中央党は法案への対処を決める会議を行った。この席でカースは、反対した場合に「党に対して不愉快な結果」が降りかかるおそれがあるとし、賛成しなくてもナチ党は法によらない手段でその権限を獲得するであろうと述べた[15]


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