全権委任法
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採決時、この時点ではまだ共産党議員は議員の資格を保持していた[28]にもかかわらず、議長ゲーリングは議員総数を共産党議員の分を差し引いた「566」と発表した[29]。国会による成立後まもなく開催された帝国参議院でも、この法律は全会一致で承認された[27]。帝国参議院の議員は選出州政府の命令に従うことが定められており、すでに各州政府はナチ党に握られていた[30]
内容全権委任法の前半全権委任法の後半
署名は上から
大統領ヒンデンブルク
首相ヒトラー
内務大臣フリック
外務大臣ノイラート
財務大臣クロージック
のもの

いわゆる全権委任法は全5条からなる。

前文:国会(ライヒスターク)は以下の法律を議決し、憲法変更的立法の必要の満たされたのを確認した後、帝国参議院の同意を得てここにこれを公布する。
ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。本条は憲法第85条第2項および第87条に対しても適用される。

ドイツ政府によって制定された法律は、国会および上院の制度そのものに関わるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。

ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。憲法第68条から第77条は、政府によって制定された法律の適用を受けない。

ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。

本法は公布の日をもって発効する。本法は1937年4月1日に失効し、また、現政府が他の政府に交代した場合にも失効する。

要旨をまとめると、以下のようになる。

第一条は、立法権を国会に代わって政府(ヒトラー内閣)に与えたものである。

第二条は、政府立法が憲法に優越し得る(違背し得る)ことを定めたものである。この条文には国会・帝国参議院・大統領の権限に関する留保事項が存在しているが、法学者ウルリヒ・ショイナー(ドイツ語版)らは留保事項は従来の憲法でなく、将来制定される憲法に基づくものであると解釈し、制限は極めて限定されたものだと解釈している[31]

第三条は、大統領に代わって首相(アドルフ・ヒトラー)が法令認証権を得たことを示す。

第四条は、外国との条約を成立させる際、議会の承認が必要ではないことを確認したものである。

第五条は、この法律が時限立法であったことを示す。全権委任法の成立には中道政党である中央党の賛成が必要であったが、この規定は中央党が賛成へ傾く一因になった。

またこの法律には、従来の授権法には存在した、国会に対する通告義務、国会による政府措置の破棄権限の条項が存在しないなど、従来の授権法と比べても異質な立法であり[32]、新たな憲法体制への道を開く、暫定憲法ともよべる法律であった[33]
成立後

この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。
出典検索?: "全権委任法" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年2月)

ヨーゼフ・ゲッベルスが24日の日記に「今や我々は憲法上もライヒ(ドイツ国)の支配者となった」と書いた[9]。またナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』は「第三ライヒ(第三帝国)」のはじまりであると宣言した[34]。全権委任法はすでにナチ党が手中にしていた権力[35]に合法性を与えるものとなった[9]。これによってヴァイマル共和政は名実ともに崩壊、新たな「憲法体制」(Verfassung)が構築された。制定手続きはヴァイマル憲法の憲法改正手続きに則って行われ、ヒトラーも制定理由を「新たな憲法体制」を作るためと説明している[36]

当時の法学者カール・シュミットはこの法により、政府が立法権を手中にしただけでなく、憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと説明している[37]

同法の成立後、ナチ党は他の政党や労働組合を解体に追い込み、同年7月14日には政党新設禁止法を制定、一党独裁体制を確立していく。大統領権限は不可侵であるとされて首相・閣僚任免権や国軍最高指揮権は依然として大統領のヒンデンブルクにあったが、すでに病体であったヒンデンブルクはこれらの措置に対して強い行動を起こさなかった。

1934年1月30日には『ライヒ新構成法(ドイツ語版)』が制定されたが、その第四条には「ライヒ政府は新憲法を制定できる」という条文が定められた。この条文を根拠に政府は全権委任法を超えた措置をも行うようになり、本来ならば憲法改正手続きを行わなければならない帝国参議院(ライヒスラート)の廃止が決定されている[38]。8月2日の『ドイツ国の国家元首に関する法律(ドイツ語版)』発効による大統領職と首相職の統合ならびにヒトラー個人への大統領権限委譲も、この『ライヒ新構成法』第四条を根拠としている[39]。ヒトラーはこれによって完全にドイツの独裁者となった(総統)。8月19日には『国家元首に関する法律』の条項に賛成するか否かという民族投票(ドイツ語版)が行われた[40]。投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票であった[40]

1937年には全権委任法の期限切れを迎えた。当初関係省庁は「ライヒ立法に関する法律」を制定し、指導者兼首相に立法権が存在するということを明文化しようとした。ヒトラーは当初この案に賛成していたが、「心理学的理由」からこの立法を拒否し、全権委任法の延長で対応することにした[41]。ヒトラーは自らの権限が国会の議決に基づくという形を嫌い、国会による延長法の制定という形をとったものと見られている[41]1939年にも同様の措置がとられたが、その4年後の1943年には『政府立法に関する指導者命令』(総統命令)によって、全権委任法の権限を今後も政府が行使すると規定された。この措置により全権委任法自体は延長されず失効したものの、その効果は政府が保持し続けることとなった[42]。この命令では「国会がこの措置を批准することを留保する」という文言が存在したが、国会は1942年4月以降開かれず、批准措置はとられなかった[41]

1945年9月20日、ドイツを占領していた連合国管理理事会(英語版)はナチス法の廃止に関する管理理事会法第一法律(ドイツ語版、英語版)を発し、他のナチス政権下に成立した複数の法律とともに、全権委任法および関連する法令の廃止を宣言した。
合法性

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この法律が合法的な手段で制定されたという意見は存在しているが、カール・ディートリヒ・ブラッハー(ドイツ語版)は、欺瞞や恐喝による同意の取り付け、左翼議員の逮捕や各州政府の改編は明らかな違法行為であったと指摘している[30]
現代ドイツ基本法への影響

第二次世界大戦後に成立したドイツ連邦共和国(東西統一以前の旧西ドイツ)では、憲法(ドイツ連邦共和国基本法)の国民主権規定を防衛する義務を国民に課し、「戦う民主主義」を基本としている。言論結社の自由などの天賦人権は保障されているが、民主主義体制の否定、連邦共和国の破壊を目指す政党は自由の名の下に保護される資格がなく禁止される(基本法21条)。


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