全権委任法
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君たちの弔鐘は鳴りわたったのだ」[25]とまくし立てた。

続いて立った中央党党首カースの演説は自己弁護に終始し、言葉とは裏腹に躊躇いを残したまま下した決定を自分自身に納得させようとする惨めなものに終わった[26]

あらゆる狭小な考慮が沈黙すべきこの時に、中央党が一切の党派的その他の躊躇いを捨てたのは、国民と国家に対する責任感である。我々がかつて敵であったもの含め全ての人々に手を差し伸べることにしたのは、差し迫った困難およびドイツの再建という巨大な課題にかんがみ、国民と国家の救済を確実にし、秩序ある国家と法の再建を促進し、無秩序な発展を阻止するためである。…

…ライヒ首相により与えられた約束が将来の立法活動の基礎となり指針となることを条件として、中央党は授権法に賛成する[27]

この後、バイエルン人民党、ドイツ国家党、キリスト教社会人民運動の賛成演説が続いた。最後に国会議長ゲーリングが「今や、ドイツの頂点に立つのは我々の指導者(Fuhrer)である。もはや、言葉は不要である。今や、行動あるのみである。我々の指導者、ライヒ首相に対し、我々は盲目的な忠誠を捧げ、ドイツの勝利にいたるまで彼に付き従うことを誓うものである」と宣言し[27]、投票にうつった。

採決政党議席数率賛成投票反対投票
国民社会主義ドイツ労働者党28845 %2880
ドイツ国家人民党528 %520
中央党7311 %720
バイエルン人民党193 %190
ドイツ国家党50.8 %50
キリスト教社会人民奉仕40.6 %40
ドイツ人民党20.3 %10
ドイツ農民党(ドイツ語版)20.3 %20
ドイツ農民連盟(ドイツ語版)10.2 %10
ドイツ社会民主党12019 %094
ドイツ共産党8113 %- - 
総計647100 %44194

採決時、この時点ではまだ共産党議員は議員の資格を保持していた[28]にもかかわらず、議長ゲーリングは議員総数を共産党議員の分を差し引いた「566」と発表した[29]。国会による成立後まもなく開催された帝国参議院でも、この法律は全会一致で承認された[27]。帝国参議院の議員は選出州政府の命令に従うことが定められており、すでに各州政府はナチ党に握られていた[30]
内容全権委任法の前半全権委任法の後半
署名は上から
大統領ヒンデンブルク
首相ヒトラー
内務大臣フリック
外務大臣ノイラート
財務大臣クロージック
のもの

いわゆる全権委任法は全5条からなる。

前文:国会(ライヒスターク)は以下の法律を議決し、憲法変更的立法の必要の満たされたのを確認した後、帝国参議院の同意を得てここにこれを公布する。
ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。本条は憲法第85条第2項および第87条に対しても適用される。

ドイツ政府によって制定された法律は、国会および上院の制度そのものに関わるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。

ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。憲法第68条から第77条は、政府によって制定された法律の適用を受けない。

ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。

本法は公布の日をもって発効する。本法は1937年4月1日に失効し、また、現政府が他の政府に交代した場合にも失効する。

要旨をまとめると、以下のようになる。

第一条は、立法権を国会に代わって政府(ヒトラー内閣)に与えたものである。

第二条は、政府立法が憲法に優越し得る(違背し得る)ことを定めたものである。この条文には国会・帝国参議院・大統領の権限に関する留保事項が存在しているが、法学者ウルリヒ・ショイナー(ドイツ語版)らは留保事項は従来の憲法でなく、将来制定される憲法に基づくものであると解釈し、制限は極めて限定されたものだと解釈している[31]

第三条は、大統領に代わって首相(アドルフ・ヒトラー)が法令認証権を得たことを示す。

第四条は、外国との条約を成立させる際、議会の承認が必要ではないことを確認したものである。

第五条は、この法律が時限立法であったことを示す。全権委任法の成立には中道政党である中央党の賛成が必要であったが、この規定は中央党が賛成へ傾く一因になった。

またこの法律には、従来の授権法には存在した、国会に対する通告義務、国会による政府措置の破棄権限の条項が存在しないなど、従来の授権法と比べても異質な立法であり[32]、新たな憲法体制への道を開く、暫定憲法ともよべる法律であった[33]
成立後

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出典検索?: "全権委任法" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年2月)

ヨーゼフ・ゲッベルスが24日の日記に「今や我々は憲法上もライヒ(ドイツ国)の支配者となった」と書いた[9]。またナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』は「第三ライヒ(第三帝国)」のはじまりであると宣言した[34]。全権委任法はすでにナチ党が手中にしていた権力[35]に合法性を与えるものとなった[9]。これによってヴァイマル共和政は名実ともに崩壊、新たな「憲法体制」(Verfassung)が構築された。制定手続きはヴァイマル憲法の憲法改正手続きに則って行われ、ヒトラーも制定理由を「新たな憲法体制」を作るためと説明している[36]

当時の法学者カール・シュミットはこの法により、政府が立法権を手中にしただけでなく、憲法違反や新憲法制定を含む無制限の権限が与えられたと説明している[37]

同法の成立後、ナチ党は他の政党や労働組合を解体に追い込み、同年7月14日には政党新設禁止法を制定、一党独裁体制を確立していく。大統領権限は不可侵であるとされて首相・閣僚任免権や国軍最高指揮権は依然として大統領のヒンデンブルクにあったが、すでに病体であったヒンデンブルクはこれらの措置に対して強い行動を起こさなかった。

1934年1月30日には『ライヒ新構成法(ドイツ語版)』が制定されたが、その第四条には「ライヒ政府は新憲法を制定できる」という条文が定められた。この条文を根拠に政府は全権委任法を超えた措置をも行うようになり、本来ならば憲法改正手続きを行わなければならない帝国参議院(ライヒスラート)の廃止が決定されている[38]。8月2日の『ドイツ国の国家元首に関する法律(ドイツ語版)』発効による大統領職と首相職の統合ならびにヒトラー個人への大統領権限委譲も、この『ライヒ新構成法』第四条を根拠としている[39]。ヒトラーはこれによって完全にドイツの独裁者となった(総統)。8月19日には『国家元首に関する法律』の条項に賛成するか否かという民族投票(ドイツ語版)が行われた[40]。投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票であった[40]

1937年には全権委任法の期限切れを迎えた。当初関係省庁は「ライヒ立法に関する法律」を制定し、指導者兼首相に立法権が存在するということを明文化しようとした。


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