全日本プロレス
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^ あからさまに差をつけられた事に対しての不満があったほか、上田によれば最終参戦となった蔵前国技館大会で、元日プロレフェリーの沖識名の引退セレモニーが行われたが、全日本サイドが売上から沖に餞別を一切渡さなかった事への義憤(代わって上田や松岡が沖に餞別を渡したとされる)も離脱の契機になったとしている(上田馬之助_(プロレスラー)#人物も参照)。
全日本所属末期にはほぼ交代で試合を干されるようになっていた上田と松岡は、助っ人参戦していた知己のあるマティ鈴木に今後の身の振り方を相談し、かつて参戦していたアメリカオクラホマ州へ移る事を模索していたという。上田と松岡は日本テレビとの3年契約が残っていたため、その間は日本の他団体に参戦することができず、日本プロレスリングコミッション事務局長であった門茂男の伝手を頼り、国内で新団体設立も画策したが資金的な面で頓挫したことで、アメリカに活路を求める形となった[10]
しかし、ほどなく上田と松岡の間に亀裂が生じ、上田はビル・ワットの伝手を頼って家族を帯同して渡米し、オクラホマ州、ルイジアナ州ミシシッピ州などへ拠点を移して長期間活動し、その後フリーランスとして日本マットへ復帰した。一方の松岡はノースカロライナ州などで活動した後にプロレスラー廃業に追い込まれている[12][10]
^ 大木はその後、猪木との対戦を要求して1974年10月から新日本に参戦し、日プロ以来の因縁のある猪木や坂口との対決を実現させた[13]。さらに1975年からは今度は馬場との対戦を要求し、同年10月には馬場との一騎打ちが実現した[14]後も愛弟子のキム・ドク(タイガー戸口)と組み、馬場&鶴田組との「日韓師弟タッグ対決」は、当時の全日本でも看板カードの一つとなった。
大木は1979年頃まで全日本に参戦した後、1980年2月から一時国際プロレスに所属したが、11月に国際離脱後は再び全日本に戻り、1982年のセミリタイアまで活動している。
^ 先にクーデター騒動で新日本を離脱していた初代タイガーマスク(佐山聡)のマネージャーであるショウジ・コンチャが、初代タイガーマスク(佐山)の全日本参戦に向けて馬場と接触していたが、ギャラが高額だったことも支障となり、その後コンチャと佐山の関係が決裂して、佐山は(第1次)UWFに参戦した事から全日本参戦は立ち消えとなっていた。馬場が大塚との雑談でこの話が出たことで、大塚側が「2代目タイガー」の全日本登場を提案し、話が進んだとされている[20]
^ ほかに栗栖正伸保永昇男仲野信市新倉史祐。さらに新人で新日本でデビューしたばかりの笹崎伸司も加わっている。
^ ジャパンプロレス勢は全日本・日本テレビとそれぞれ契約をしており、事実上は全日本の傘下団体という扱いであった。また、1985年からジャパンプロレスを介する形で全日本に参戦していたスーパー・ストロング・マシーンヒロ斎藤高野俊二の「カルガリー・ハリケーンズ」もジャパンプロレスと同様に全日本・日本テレビと契約していた。
^ その後「カルガリー・ハリケーンズ」参戦の影響で選手層が余剰となったため、「国際血盟軍」のうち木村と鶴見五郎以外の3名(剛竜馬・アポロ菅原・高杉正彦)は整理解雇されている。剛らの解雇には冗員整理のほかに、剛らが全日本のファイトスタイルを否定するような振舞いをしばしば行った事で、馬場らの心証を損ねたことも遠因とされている。
^ 二人が活動拠点としていたカナダ・カルガリーに、WWF(当時、新日本と提携していた)が進出して来た事に不満を持ったうえでの移籍としているが、実際の背景として、カルガリーに定着し日本マットとのブッキング役となっていたミスター・ヒト(安達勝治)が、これまで海外修行先などで提携してきた新日本に対する待遇の不満から関係が悪化し、ドリー・ファンク・ジュニアを経由して全日本に接近したうえでの引き抜きであったとされる[21]
^ 田上は大相撲廃業直後にプロレス入りの意向を示したことで、日本相撲協会との更なる関係悪化に配慮した馬場がジャパンプロレスに入団させる形でクッションを設けた。既に田上の転向時点でジャパンプロレスは事実上興行機能は失っていたため、あくまで名義上の所属で実質全日本の所属選手と変わらなかった。その後、1987年10月にジャパンプロレスが正式に解散した事により、田上も翌1988年1月より全日本のマットでデビューとなった。
^ ただし、タイガーを含めて所属選手の怪我が続出したことなどで目立った成果を上げることなく、馬場の「全然決起していない」という鶴の一声により、結成から僅か1年で解散させられている[26]
^ NWA加盟時代の全日本プロレスの王座は、選手権試合宣言の中で「NWAが認可し、PWFが認定する」という明文がなされ、認定者もNWAとPWFの会長連名とされていたが、脱退後はNWAの認可明文がなくなり「PWFが認定する」に変わっている。
^ 馬場の存命時には1990年4月の新日本・全日本・WWF合同興行の「日米レスリングサミット」でも、馬場をはじめ所属選手の数名が東京ドームに参戦している。
^ 後に川田は馬場亡き後、全日本にはフリーとして上がっており専属契約はしていないことを告白しているが、2004年までは全日本の役員に名を連ねていた。
^ 武藤の入団には馳浩の勧誘もあったとされている。新日本側の余波として、武藤移籍の引責の形で現場責任者であった長州力の解任や、馬場元子から引き抜きを持ちかけられたとして、新日本の企画宣伝部長であった永島勝司が猪木の不興を買う形で新日本からの退社に追い込まれている。武藤らの全日本移籍の余波は、その後の長州、永島らによるWJプロレス旗揚げへの伏線にもなっている。
^ 後の調査で河野真幸、稔、MAZADAは暴行に関わっていないことが明らかになったため、6月30日付で出場停止処分は解除された。
^ その後負傷による長期療養から復帰しないまま、同年末をもって退団。
^ その後、全日本と白石との関係は事実上清算されており、約10年後の2023年7月に、新規の仮想通貨発行への出資名目で美術品販売会社から1億5000万円を詐取した詐欺容疑で、白石など3名が警視庁捜査二課に逮捕されている[46]
^ このほか、1998年5月1日の全日本・東京ドーム大会では武輝道場北尾光司が参戦し、田上明との対決が予定されていたが、カード発表直後にキャンセルとなっている。
^ 2020年のチャンピオン・カーニバルにも参戦が発表されていた(当時はフリーランス)ものの、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により来日中止(のち大会自体も中止)となった。
^ 馬場の没後は三沢が代表取締役社長代理を務めて5月から代表取締役社長に就任している。

出典^ a b c会社概要 - 全日本プロレス
^ “知っていれば楽しさ倍増!日本のプロレスの歴史を簡単チェック”. 【SPAIA】スパイア (2016年12月16日). 2020年11月15日閲覧。
^ 『日本プロレス70年史 昭和編』P125より。
^ 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』P104・105より。
^ 日本テレビぶちぎれ!日プロの裏切り行為でプロレス中継打ち切り【坂口征二連載#20】 - 東スポnote 2022年12月21日
^ ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.22 P16-P23より。
^ 『昭和40年男10月号増刊 昭和プロレス大全』18Pより
^ 『日本プロレス70年史 昭和編』P206より。
^ 『Gスピリッツ Vol.16』P75より。
^ a b c d e ベースボール・マガジン社『日本プロレス事件史』Vol.22 P35-P42より。
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