全国高等学校野球選手権大会
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第45回大会1963年) - 同上

第50回大会1968年) - 同上

第55回大会1973年) - 同上(沖縄県はこの前年に日本に復帰)

第80回大会1998年) - 北海道・東京都に加えて、参加校が128校を超える埼玉県・千葉県・神奈川県・愛知県・大阪府・兵庫県の6府県から2代表選出。

第90回大会2008年) - 同じく前述の6府県が2校選出。

第100回大会2018年) - 前述の6府県に加えて福岡県からも2代表選出。

参加校が32校以下で5回戦制となる県と129校以上で8回戦制となる都府県があり、都道府県により地方大会の試合数は大きく異なっている。「全国高等学校野球選手権地方大会」および「消滅した全国高等学校野球選手権地方大会の一覧」も参照地区割りの変遷
会場

1915年第1回全国中等学校優勝野球大会豊中グラウンドで行われた。豊中グラウンドは1913年大正2年)に現在の阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が建設・設置したものであるが、規模の小ささなどが問題となっていた。

この当時は遠征費用をすべて出場校が負担していたこともあり、会期を短縮して出場校の費用を軽減することが考慮された結果、複数のグラウンドを設置することも求められた。これに鳴尾運動場を所有していた阪神電気鉄道が応え、場内に野球用グラウンドを2面設置することで1917年第3回大会から会場が移された。しかし、学生野球が人気になるにつれ観客が増加し、1923年第9回大会では溢れた観客がグラウンドになだれ込む事件が発生する。さらにグラウンドの水はけの悪さもあって、主催者の大阪朝日新聞は、本格的な野球場の建設を提案した。

鳴尾球場を所有していた阪神電鉄は、鳴尾村に流れていた申川と枝川(武庫川の支流)を廃川としたあとにできた埋め立て地に大規模な沿線開発を行っており、当時阪神電鉄の専務だった三崎省三の構想もあり、旧枝川・旧申川の分流点あたりに野球場を建設する計画を立てていたことから、利害が一致。ニューヨーク・ジャイアンツのホームグラウンドのポロ・グラウンズを参考に球場を大会に間に合わせるため突貫工事で建設され、1924年8月1日に球場が完成。この年が十干十二支の最初の年である甲子年(きのえねのとし)という60年に1度の縁起のいい年であることから、甲子園大運動場と命名された。

同年の第10回大会から使用開始。戦後初の復活開催となった1946年第28回大会はGHQに甲子園を接収されていたため、阪急西宮球場で行われた。この大会は、立教大学の教授を務め、戦後GHQの将校として再来日したポール・ラッシュ博士が、若者たちに夢や希望を与えるスポーツを復活させることが戦後の日本の復興にとって喫緊課題であるとして、大会復活に尽力し開催したものであった。

出場校を大幅に増やした第40回大会1958年)と第45回大会1963年)では大会日数を減らすため、甲子園球場と西宮球場を併用して使用するものの、不公平として評判がよくなかったため(甲子園で試合できず敗退した学校からは苦情があった)、これ以降は一貫して甲子園で行われるようになった。

当大会を主目的に建設された甲子園球場は半世紀あまりの大会を優先的に行っているため、当球場は高校野球の聖地として高校球児たちの憧れの舞台となっている。「甲子園」という言葉自体が高校野球全国大会の代名詞となっており、「夏の甲子園」という通称としても扱われているように当大会に大きく貢献していることから、2010年シーズンから大会の特別協力として扱われている。

なお、上述のような経緯、そして開設当時は阪神電鉄も電車運賃と沿線開発によって収益を上げられたことにより、高校野球の開催について甲子園球場の使用料を請求しておらず、これは開設から90年以上を経た2015年時点でもそのままとなっている[6]

また、阪神甲子園球場は阪神タイガース本拠地ともなっているが、1990年代半ばまでタイガースは高校野球の開催期間中に本拠地が使えないため、長期ロードを強いられていた。かつてはロード中に成績が低迷することが多かったため「死のロード」の異名で呼ばれることもあった。1997年以降、タイガースは当大会や春の選抜大会中に準本拠地として近傍の大阪市にある大阪ドーム(京セラドーム)を使用する日程を組むようになったので、そうした異名は過去のものとなっている。

虫明亜呂無は「昭和の初めから甲子園の中等野球が阪神地帯を中心に盛んになっていったのは、山陽四国九州地方の出身者が、阪神地帯で商店の丁稚や中小工場の工員などで働いていたとき、たまたま8月のお盆休みに、甲子園球場に来て、故郷の学校の活躍を見て、激しい応援を送ったからである。自分と小学校で同窓だった者が、あるいは隣村の誰それが野球の選手として甲子園に来ているという親近感が甲子園の野球を支えた。甲子園の野球は望郷と流浪の野球に他ならない。『いつの日か 故郷に帰らん 流離の泪』が甲子園野球の花である。野球が故郷を離れた者同士を堅く連帯させた。観客の想いはひたすら故郷に向かった」等と論じている[7]
日程

現行の日程(49代表・48試合制)は以下の通りである。

日程試合・他
初日開会式
第1試合1回戦
(49→32)
第2試合
第3試合
2日目第1試合
第2試合
第3試合
第4試合
3日目第1試合
第2試合
第3試合
第4試合
4日目第1試合
第2試合
第3試合
第4試合
5日目第1試合
第2試合
第3試合2回戦
(32→16)
6日目第1試合
第2試合
第3試合
第4試合
7日目第1試合
第2試合
第3試合
第4試合
8日目第1試合
第2試合
第3試合
第4試合
9日目第1試合
第2試合
第3試合
10日目第1試合3回戦
(16→8)
第2試合
第3試合
第4試合
11日目第1試合
第2試合
第3試合
第4試合
12日目休養日
13日目第1試合準々決勝
(8→4)
第2試合
第3試合
第4試合
14日目休養日
15日目第1試合準決勝
(4→2)
第2試合
16日目休養日
最終日決勝戦(2→1)
表彰式・閉会式

現在の全都道府県から代表が出場する以前は8月中旬(おおむね8月10日前後から)の10日間前後で開催されていた。全都道府県から選出された記念大会では、第40・45回は同じ日程だが、第50・55回は14日間で開催された。

第60回1978年)より、各都道府県の代表が参戦するようになってからは、おおむね8月8日を起点とした14日間を基本として行うようになった。出場枠が55(56)校に拡大される記念大会は2日間延長される。

第63回1981年)までは2 - 9日目が4試合日、10 - 11日目が3試合日となっており、3回戦を9 - 11日目の3日間かけて消化していた。

準々決勝については、第85回2003年)までは1日4試合を一括開催していたが、第86回2004年)から第94回2012年)は選手の健康管理を考え、1日2試合ずつの2日間開催に変更された(会期を1日延期。ただし、雨天などによる順延が3日以上となった場合は、4試合を一括開催)[注 5]。この関係で、長年8月8日前後に開幕していたのが、1 - 2日程度前倒しして行われるようになっている。

第95回2013年)からは1日4試合開催に戻し、準々決勝と準決勝の間に休養日を1日挟み、選手の連戦による健康被害軽減に配慮した(会期は変わらず15日間=以後の表記は休養日込み。準々決勝までに3日以上順延となった場合は休養日なし)[8][9]

第101回2019年)からは準決勝と決勝の連戦を避けるため、休養日が1日追加された(会期は16日に延長)。


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