全国高等学校サッカー選手権大会
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1919年には神戸高商主催(朝日新聞社後援)で[50]、毎日新聞主催の本大会とほぼ同じ出場チームによる「全国中等学校蹴球大会」が[出典 23]1921年から名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が[注釈 7]1924年には岐阜蹴球団主催の「全国中等学校蹴球大会」[出典 24]八高主催の「全国中等学校蹴球大会」[56]、同年9月に開催された東京高等師範学校主催による「第1回全国中等学校ア式蹴球大会」(豊島師範運動場)には東京高師附中を含め約40チームが参加した[出典 25]1925年には関西学院高等部主催(大阪毎日新聞社後援)の「全国中等学校ア式蹴球大会」が[50]、その他刈谷中学広島高専主催でも「全国中等学校蹴球大会」と名乗る大会が[59]、その後全国各地で新聞社や蹴球団、大学旧制高校師範学校など、学校主催による「中等学校蹴球大会」がいくつも行われるようになり、競技会の乱立時代といわれた[出典 26]1932年から1933年にかけては、全国各地で22も中等学校のサッカー大会があった[出典 27]。1933年に関西大学主催で行われた「関西中等学校蹴球大会」などは、他地域からの参加も含めて37校が集まる大きな大会で[出典 28]、同年の本大会の参加12校を大きく上回る規模であった。八高主催の「全国中等学校蹴球大会」第1回大会(1924年)には、関西や広島からも参加があったように[出典 29]、「全国中等学校蹴球大会」と付けられた大会や、先の「關東中等学校蹴球大會」「東海蹴球大會」などは、所在地域の参加が主で全国規模の参加まではいかないが、どの大会にも他地域からの参加があった[出典 30]。ところが、毎日新聞社主催の大会は「日本フートボール優勝大會」と名乗っていても、第1回から1925年の第8回大会までの間、関西以外の学校は一校も参加がなかった[11]。「全国中等学校蹴球大会」という名前の大会が多いのは、主導権争いが目的であったといわれる[35]1934年に大阪の毎日新聞社主催の大会に一本化されたが(#大会の一本化)、現在の高校選手権は、これら全てを源流とする見方も出てきている[出典 31]
カテゴリーの問題

多くの大会で師範学校旧制中学校と同じ大会で争ったため、年齢のハンデを無視したものとして非難もあった[出典 32]。旧制中学校と師範学校とでは就学年齢が一致せず、体力差が大きく影響して中学校側がいつも優勝圏に近づけない不満を持っていたので、中学校の部と師範学校の部を区別してそれぞれ公平に戦わせるのが理想であった[54]。戦前の学校制度は複雑で、さらに飛び級や、旧制中学入学に年齢制限がないようなことがあり分かりにくいが、基本的に師範学校は小学校を卒業後、高等小学校2年を経て、5年制の師範学校に行くので卒業時は19歳となるが、旧制中学校は小学校卒業後、5年間行くため卒業時17歳となり、年齢で3年重なり、最上級生のとき師範学校が2歳上となりハンデが生じる(日本の学校制度の変遷[出典 33]。第1回大会から第7回大会まで七連覇した御影師範は、年齢が高かったこと、また師範学校は全寮制で、年中合宿をしているようなものでチームワークが良く、練習も充分にやれ、旧制中学のチームは適わなかったといわれる[26]。当時は柔道や庭球などでも師範学校と旧制中学校は同じ大会で試合を行うことが多かった。これは各都道府県のスポーツ史等を見れば確認できる。中等野球(高校野球)でも戦前に福島師範長野師範などが全国大会に出場したことがある[74]。サッカーの「関東中等学校蹴球大会」は、この大会名で朝日新聞に広告も打った[32]。大新聞に「中等学校大会」と広告も打って普通に師範学校が出場しているのだから、特に問題はなかったものと思われる。本来は師範学校と中学の部は分けて行うべきなのだが、しかしこの二分野を別立てすると大会そのものが成立しなかったと『東蹴六十年史草稿』22頁に書かれている。それが何故なのかはこの本に書かれていないが、この時代サッカーをやっている学校自体が少ないから、師範学校と中学を別々に分けるとチーム数が少なくなり、例えば各5チームずつの参加ではトーナメント大会として成立し難く盛り上がりに欠ける、あるいは、元々サッカー自体に人気がない上、中学の大会ならまだしも、師範学校の大会は地味で人気がなく、師範学校だけの大会では成り立たなかったため一緒にやらざるを得なかった、等といった理由が考えられる[出典 34]。毎日新聞社主催の「日本フートボール優勝大會」は、カテゴリーを問いていないので、この問題は本来関係がないが、その毎日新聞社主催大会を第9回大会から全国大会に移行させるおり、この二つを分けるという案を大日本蹴球協会が出したが、毎日新聞社側に断られたという[36]。新聞社がスポーツの大会を支援するのは、新聞の拡販や、広告獲得などの目的があるためと見られ、新聞社の主催でない学校主催の大会では、この二つを分けて開催することがあった。東京高等師範学校主催の「全国中等学校蹴球大会」では1924年の第1回大会から、師範学校の部と中学の部は別々に行われた[出典 35]八高主催の「全国中等学校蹴球大会」でも、1926年の第4回大会からこの二つを分けている[出典 36]。この他、旧制大学旧制高等学校大学予科大学専門部高等師範学校旧制専門学校は、師範学校とは年齢が重なる場合もあるが、旧制中学とは年齢が上で重ならないため、これらに所属するチームが「中学校大会」に参加することはあっても、優勝を争うトーナメントのような公式試合で対戦することはない。中学校と対戦することがあるのは模範試合や練習試合である。前述したように毎日新聞主催の本大会に関西学院高等部神戸高商が出場したのは「中学校大会」ではないからで[29]、このように「中学校大会」と銘打っていない年齢制限などを設けていない大会では対戦することがあった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:578 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef