同じ年の1ヵ月後の2月に関東地区で「關東中等学校蹴球大會[32]」(かんとうちゅうとうがっこうしゅうきゅうたいかい=東京蹴球団主催、朝日新聞社の後援)[出典 15]、同じ2月に名古屋市では新愛知新聞社(現:中日新聞社)の主催で「東海蹴球大會」が別々に開催され[17]、1918年以降にも引き続いて開かれた[出典 16]。「關東中等学校蹴球大會」は東京蹴球団が東京朝日新聞と組んで開催したもので[出典 17]、毎日新聞主催の本大会にはサッカー関係者が殆ど関われず[17]、大阪毎日新聞社が独自の発想のもとで行なわれたものに比べ、この大会を開催したのはサッカー関係者であり、朝日新聞社はあくまでも後援という立場であった[17]。第1回大会は、中等學校優勝大会の外、東京高師、帝大、外人(外国人チーム)等の模範試合が行われ、大日本体育協会の当時の会長・嘉納治五郎が名誉会長を務め、久邇宮邦久王、久邇宮邦英王、山階宮藤麿王、山階宮萩麿王、山階宮芳麿王、竹田宮恒徳王6名の台臨、さらに内野台嶺大会委員長と親交のあった英国大使グリーン、副領事・ウィリアム・ヘーグの来場まであった[出典 18]。1936年に出版された『大日本體育協會史』下巻内の<大日本蹴球協會史>や、やはり日本体育協会が監修して1988年に出版した『保健体育スポーツ指導選書 最新スポーツ大事典』の中では、この「關東中等学校蹴球大會」が詳述され、毎日新聞主催の大会はほとんど書かれていない[出典 19]。この他「關東中等学校蹴球大會」を毎日新聞主催の大会と同様に高校選手権の前身と見なし、歴代優勝校年表を毎日新聞主催の大会と並列に記載した文献もある[42]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}このように古いサッカーの文献に「關東中等学校蹴球大會」を重きにおいて書かれたものがあるのは、大日本蹴球協會の中での勢力争いが関係していると考えられる。[独自研究?]大日本蹴球協會はこの大会の3年後の1921年に設立されるが、設立にあたり中心的に動いたのが内野台嶺ら東京高等師範の関係者で「關東蹴球大會」を主催した東京蹴球団を設立したのも内野、後援した朝日新聞社側の担当者が東京府青山師範学校OBで東京蹴球団の選手でもあった山田午郎、「關東中等学校蹴球大會」の名誉会長を務めた嘉納治五郎は、大日本体育協会会長でもあり当時、東京高師の校長でもあった[出典 20]。大日本蹴球協会も初期の間は、師範学校系の幹部たちが力を持っていたため、彼らの多くが関与した「關東中等学校蹴球大會」の方をある時期までは支持していたためと見られる[出典 21]。毎日新聞主催の大会は、当初は大日本蹴球協会がタッチできなかったが[出典 22]、第9回大会からの全国大会移行にあたっては野津謙ら、大日本蹴球協会の大学OBが関与したため[36] 彼ら大学OBが大日本蹴球協会内で力を増すに連れ「毎日新聞社主催大会」が支持を増やしていったのかも知れない[独自研究?]→(#全国大会へ(第9回?))。
翌1919年には神戸高商主催(朝日新聞社後援)で[50]、毎日新聞主催の本大会とほぼ同じ出場チームによる「全国中等学校蹴球大会」が[出典 23]、1921年から名古屋蹴球団主催、新愛知新聞社(現:中日新聞社)後援による「全国中等学校蹴球大会」が[注釈 7]、1924年には岐阜蹴球団主催の「全国中等学校蹴球大会」[出典 24]、八高主催の「全国中等学校蹴球大会」[56]、同年9月に開催された東京高等師範学校主催による「第1回全国中等学校ア式蹴球大会」(豊島師範運動場)には東京高師附中を含め約40チームが参加した[出典 25]。