全国高等学校サッカー選手権大会
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当時の日本テレビのネットワーク体制ではとても無理な注文だった[注釈 10] が、ここで電通が仲介に入り当時のTBS系列のローカル局[注釈 11] と折衝を行い、日本テレビをキー局としつつTBS系列局および一部のフジテレビ系列局・独立局を含めたローカル局による全国38局[132][注釈 12] の中継体制を築くことに成功。これにより第50回大会より正式に中継が日本テレビに移行した[注釈 13]

全国テレビ中継とスポンサーを得た本大会の運営は強化される方向に向かい、特例としてインターハイとは別の選手権として高校サッカーの最高峰の大会と位置づけられるようになった。

1971年度の第50回大会は、長居競技場が主会場となり、1回戦と2回戦では西宮球技場神戸中央球技場が併用された[133]。翌年からの第51回大会第52回大会第53回大会第54回大会では、長居競技場とうつぼ球技場が会場となった[出典 70]
決勝大会の首都圏への移転

第55回大会(1976年度)からは、決勝大会の会場を首都圏東京都千葉県神奈川県埼玉県)に移すこととなった。元々日本テレビやJFA関係者の間では決勝大会を首都圏で開催したいという要望が強かったことに加え、当時日本テレビで本大会の中継スタッフだった坂田信久が「(日本テレビに中継が移って)最初の2年で関西ではスタンドを満員にするのは厳しいとわかった」と語っているように、高校野球の影響でサッカーへの関心が薄い土地柄だったことや大会の採算面からも関西開催では大会の発展が厳しいという認識が関係者の間で広まり、最終的に高体連の47都道府県の委員長会議で多数決により会場の移転が決まった。しかし現在もなお、関西のサッカー関係者にはこの決定に不満を唱えるものが多数存在するという[135]。当時も関西サッカー協会会長で日本蹴球協会副会長であった川本泰三らが激怒。このため坂田らは首都圏開催後の同大会を絶対に成功させるとして、大会のイメージアップに全力を注ぐ。場内に広告看板を設置してテレビに映すほか、後には試合時間内にはテレビCMを入れないようにしている。大会の応援を都道府県の県人会へ連絡した他、各出場校にも職員会議から父母会、生徒会にまで足を運んで頼み込んだという。[要出典]

西が丘サッカー場など、当時未だ計測時計が会場掲示板に無い競技場が多く、このためテレビ局の大道具に人動で動かす大型時計制作してもらって、アルバイトストップウォッチで試合時間を計測させて1分毎に手動で時計の針を動かしたという。[要出典]

この他に中継に使用するテーマ曲を、この際に現在の曲に刷新。会場にも4台のカメラを設置して試合を追いかけて中継を行った。

こうして、首都圏開催の初回となる第55回大会決勝戦・浦和南(埼玉)対静岡学園静岡)の国立競技場は観客が超満員となる約6万人が来場した[136]

広島勢と埼玉勢は1980年代に入ると弱体化したが[出典 71]、静岡勢は全国から優秀な選手が集まり、1980年代に一強時代を形成した[出典 72]。しかしこの頃から東京勢千葉勢などの関東勢、長崎勢鹿児島勢福岡勢など九州勢が抬頭し[出典 73]、1993年にJリーグができると、才能のある選手はプロへの近道であるJクラブのアカデミーへ進むようになり[出典 74]、選手権の存在意義も揺らいだが[138]、サッカーの普及が進むことで地域格差が消えた[出典 75]21世紀に入ると群雄割拠の傾向が現われ[出典 76]、県内にJクラブやライバルが不在(だった)青森山田星稜野洲など、それまで決してサッカーが盛んといえなかった地域の学校が優勝争いに絡むようになった[出典 77]

第62回大会(1983年度)からは、原則として1都道府県1代表制で実施されるようになり[注釈 14]、現在に至っている。

開会式・準決勝・決勝(年度により準決勝は他のスポーツ大会の都合で別会場)は旧国立競技場で大々的に行われており、高校サッカー選手たちは「目指せ!国立」を一つの合言葉にしていたが、2014年5月に旧国立競技場が閉鎖→2020年東京オリンピックパラリンピックの開催に伴う全面改築工事に入ったため同年-2020年の年末年始にかけての大会以後は、暫定的に開会式・開幕戦を駒沢オリンピック公園陸上競技場、準決勝・決勝は埼玉スタジアム2002をメイン会場として行っている。

第100回記念大会(2021年度)の開会式・開幕戦・準決勝・決勝は新装となった国立競技場で行われた。
現在

近年はクラブユース勢の台頭とそれに伴う人材のシフトにより、ユース年代のサッカー大会としてのプレステージが高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会、その後継大会である高円宮杯U-18サッカーリーグに移行し、当大会のレベル低下を指摘されているが、今なお多くの高校サッカー部の選手にとっては最も価値あるサッカートーナメントの位置を占めている大会であり、社会的にも最も大きな注目を集めるサッカー大会の一つである。また、クラブユースの台頭に伴って、かつて優勝を寡占した名門校の地位が下がり、また近年のサッカーの普及に伴って各地域の底上げがなされた。

この大会の優秀選手から選手を選抜し、1973年から毎年4-5月に行われるヨーロッパでのユーストーナメント大会(隔年で偶数年にスイスベッリンツォーナ奇数年にドイツデュッセルドルフ)に日本高校選抜チームとして出場している。また、かつては「ニューイヤーユースサッカー」として、ヨーロッパのユース年代のチームを招待した交歓大会もあり、日本高校選抜もそれに出場した。第88回大会(2009年度)終了後は、海外遠征前に本大会協賛社の富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が特別協賛している「FUJIFILM SUPER CUP(旧・FUJI XEROX SUPER CUP)」の前座試合として、U-18Jリーグ選抜(高校1,2年生)との親善試合が組まれる。


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