全国宣伝指導部(Reichspropagandaleitung)がミュンヘンに設立され、ナチ党の権力掌握後には、ベルリンに連絡事務所が設置され組織が拡大した。
新たに設立された全国宣伝指導部の長である全国宣伝指導者は、1930年以降はゲッベルスである。ゲッベルスの下に幕僚長(Stabsleiter)にフーゴ・フィッシャー
(1937年)、オイゲン・ハダモフスキー(1942年)がつき、副官(Adjutant)にはカール・ハンケ(1937年)が着任した。全国宣伝指導部以下の党宣伝部は
大管区宣伝指導部(Gau-Propagandaleitung)
管区宣伝指導部(Kreispropagandaleitung)
地区宣伝指導部(Ortsgruppenpropagandaleitung)
から構成されそれぞれ宣伝指導者がついた。 全国宣伝指導部にはいくつかの部署があり、それぞれに「局長(Amtsleitung)」が着任した。
各部署
文化局(Kultur)(局長:1937年よりFranz Moraller)
扇情局(Aktive Propaganda)
映画局(Film)
ラジオ放送局(Rundfunk) ― (局長:1937年よりホルスト・ドレスラー=アンドレス
1940年から、部署は徐々に再編され、1941年には、6つの「本部(Hauptamt)」から構成された。
宣伝本部(Hauptamt fur Propaganda)
放送本部(Hauptamt fur Rundfunk) ― (本部長:1941年8月よりアウグスト・シュタット)
組織調整本部(Hauptamt fur Ausrichtung der Organisationen)
映像制作本部(Hauptamt Film)
全国移動宣伝班本部『ドイツ国』(Hauptamt Reichsautozug ?Deutschland“)
文化本部(Hauptamt Kultur) ― (本部長:1941年よりハンネス・クレーマー、1942年よりカール・クレーフ)
1945年10月10日の連合国管理理事会法第2号(ドイツ語版)により、全国宣伝指導部は連合国管理理事会(英語版)によって禁止され、財産は没収された。 1937年よりカール・ノイマン
映画
映画部は、独自に短編映画やドキュメンタリー映画を制作していた。制作された映画は以下のようなものである。
『最深部から高みへ(Aus der Tiefe empor)』(ウォルター・W・トリンクス、1934年 )
『昨日と今日(Gestern und heute)』(ハンス・ヴァイデマン、1938年 )
『決断の年(Jahre der Entscheidung)』(ハンス・ヴァイデマン、カール・ユンハンス、ローター・ビューレ、1937-39年 )
『仮面のないユダヤ人(Juden ohne Maske)』(ウォルター・ベッチャー、レオ・フォン・デア・シュミーデ、1937年)
『ソビエトの楽園(Sowjet-Paradies)』(フリードリッヒ・アルバト、1942年)
脚注^ Peter Longerich: Heinrich Himmler. Biographie. Siedler, Munchen 2008, ISBN 978-3-88680-859-5, S. 97 f.
関連項目
ナチスのプロパガンダ
ナチスの映画政策
今週の標語
宣伝中隊
国民ラジオ
参考資料
歴
国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
思想
ナチズム
指導者原理
人種主義
アーリア人至上主義
反共主義
反ユダヤ主義
支配人種(英語版)
権威主義
保守革命
民族共同体
血と土
生存圏
第三帝国
強制的同一化
新秩序(ナチズム)(ドイツ語版)
人物
総統
アドルフ・ヒトラー
後継指名者
ルドルフ・ヘス
ヘルマン・ゲーリング
全国指導者
ヘルマン・エッサー
フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ
ヴァルター・ブーフ
マックス・アマン
ヨーゼフ・ゲッベルス
オットー・ディートリヒ
マルティン・ボルマン
フィリップ・ボウラー
ロベルト・ライ
ハンス・フランク
リヒャルト・ヴァルター・ダレ
ヴィルヘルム・フリック
コンスタンティン・ヒールル
ヴィルヘルム・グリム
バルドゥール・フォン・シーラッハ
アルトゥール・アクスマン
アルフレート・ローゼンベルク
カール・フィーラー
フランツ・フォン・エップ
ハインリヒ・ヒムラー
エルンスト・レーム
ヴィクトール・ルッツェ
突撃隊幹部
フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン
エルンスト・レーム
エドムント・ハイネス
ヴィクトール・ルッツェ
ヴィルヘルム・シェップマン
Category:突撃隊隊員