入浴
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特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。またはこの蒸し風呂のことを風呂と呼んでいた。

平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を、上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や寛ぎの色彩が強くなったと考えられている。

浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が、一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。

だが、漢方医の間では入浴の習慣が広まることに危機感を覚えるものもいた。いわゆる後世派と呼ばれる医師たちは、温泉療法以外による入浴は体内の気を乱して体に悪影響を与えると考えていた。貝原益軒の『養生訓』にも10日に1度ぬるま湯に沐浴すれば良く、それ以上の入浴は却って毒となると書かれている。だが、古方派とされる医師たちは実証主義観点から適度な入浴は気の循環を良くして体内の毒物を外部に排出するのを助けると論じ、蘭方医皮膚が付着することの危険性を論じて、「入浴害毒論」を批判している。

現在、世界的に見ても日本人の入浴頻度はかなり高い。江戸時代は一般的に入浴頻度がそれほど高くなく、銭湯などの共同浴場での入浴が一般的だった一方で、地域や生活水準、あるいは季節によってまちまちであった。毎日入浴する習慣が全国的になっていくのは、家庭内へガスによる瞬間湯沸器や水道水の普及が進んだ高度経済成長期以降のことである。近年はシャワーが普及し、少人数世帯の増加と、夏期は一日に複数回入浴するためにシャワーのみ浴びるという人が増えた。また「高温の入浴は健康(特に高血圧)に悪い」「身体を温めるにはややぬるい風呂に長く入る方が効果的」と考えて、ぬるめの入浴を好む日本人も増えるなど、入浴の仕方に変化が現れている。

温泉街では、地元住民が通う湯温が高い共同浴場と、観光客も入れるぬるめにした浴場が別に設けられている地区もある[6]
日本の入浴習慣橋口五葉「ゆあみ」(1915年)

一般に日本人は入浴、特に高い温水での入浴を好むと言われ、多くの日本人が好む入浴温度は40?43度程度である。『徒然草』にも住まいは夏を旨とすべしとあるように、日本の住居は日本の多湿の気候を考慮して、風通しの良い構造が好まれていた。このため冬場に身体が冷えるために熱い温度の入浴が好まれるようになったというものである。

日本人が風呂好きとなった原因として、冬は前述の理由から、夏は高温多湿の気候により汗をかきやすく、火山島のため土が粘土質であり埃が立ちやすいことなど、1年を通じて入浴を必要とする日本の気候風土が挙げられる。また神道仏教の影響を受け、入浴によってを落とすことは浮世の汚れとともに、心の中の垢(いわゆる「煩悩」)をも洗い流すと信じられてきたことや、入浴による心身における爽快感という実体験が慣習として根付いたのだとする見方もある。

これに対して、例えば中国では沐浴を5日に1回行うことが理想とされてきたが、基本的には蒸気浴・あるいは行水の類であったと考えられており、日本人の入浴が特殊であったことを物語っている。他の外国も行水、シャワーを使用する国が多い。

日本人は入浴に対し熱心かつ真剣であると言われる。「アメリカ人は体をきれいにするために風呂に入るが、日本人は体をきれいにしてから風呂にはいる」と言われるほど浴槽の衛生管理に気を使っている。日本では、浴槽に入る前に身体を洗うか、汚れを流し落とすことがマナーとされる[7]。日本人と同じく入浴に熱心だったローマ人にとって、入浴はその後の活動の準備であり、そのために体をリフレッシュさせる手段であるため専ら日中に入浴した。一方、日本人は一日の疲れを癒やしぐっすり寝るために夜に入浴する[8]
共同浴場(銭湯)「銭湯」も参照女湯石榴口つき銭湯

多数の他人と全裸で入浴をする共同浴場は、世界的に珍しい日本独特の入浴スタイルである。日本以外の温泉や公衆浴場では水着や前掛けを着用して入るのが一般的である。日本でも宝永年間以前までは、男は風呂褌、女は湯文字という専用の服装で入浴していた[9]

公家が邸宅に入浴施設を取り入れ始めた平安時代頃から、集落の密集した都市には入浴をサービスとして提供する町湯が現れたといわれている。

1591年に伊勢与市によって江戸に初めての銭湯が置かれて以来、急速に江戸市民の生活に溶け込んでいった。江戸時代に入ると、銭湯が大衆化した。初めは心身的な理由で入浴することが多かった人々の間でも、次第におしゃれや娯楽、社会的コミュニケーションの場として銭湯に行く者も増加するようになった。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にしてもらう湯女風呂などが増加した。当時の川柳に「銭湯へ行かぬで下女は毒づかれ」と銭湯へ行かない者を揶揄するものが現れるのも、こうした時代背景がある。松平定信が江戸の銭湯での男女混浴を禁止する御法度を出すなど、風紀の厳しい取り締まりの対象にもなった(この取締りは日本の狭小な住宅事情もあり、銭湯側の対処が湯船に簡便な仕切りを施しただけの例が多かったため結果的に浴室が狭くなり、特に女性側から苦情が出た)。その一方で幕府が低廉な価格維持(山東京伝によれば享和年間における入湯料は大人10文・子供8文であったという)の代わりに銭湯業者の保護も行っていた。日に何度も銭湯へ通う客のために、月単位で通しで入れる木札を売っていたともいう。

浮世風呂』(式亭三馬)のように文芸・絵画の題材にもなった。

なお江戸時代の銭湯の浴室は蒸し風呂を兼ねていた。入り口が柘榴口と呼ばれる高さが低い鴨居で湯気が逃げないようにする構造になっており、そのため浴室内はかなり薄暗かった。そのため、浴室に入るときや出るときには先客に声をかける(例えば、入る時には「冷えものです」等)のが礼儀とされた。なお、柘榴口は明治初期に衛生上の問題を理由に政府の命令によって取り外された。

明治以前にも男女混浴は風紀を乱す元として禁止令が出されたこともあったが、効果は薄かった。明治に入ってから、男女別浴が徹底されるようになった。また、トルコ風呂(現在のソープランド)は日本独自の大人の性風俗文化として花開いた。
地域における入浴習慣

四国の一部では新築の家あるいは風呂のリフォームをした際、一番風呂を通り掛かりのホームレスや御遍路(四国八十八箇所巡りの巡礼者)、親族の老人などに使わせた上、応接間で馳走(あるいはうどん)を振舞うと云う風習がある所がある。
医学的知見


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