入れ墨
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MRI検査の際に金属が多く含まれる顔料を使用した入れ墨がある部分に、火傷や痛み、入れ墨の変色が発生することや、MRI画像にノイズが入ることがあるためで[26][27][28]、このようなトラブルは入れ墨に使われるインクの成分 (特に酸化鉄やその他の金属成分が原因とされる) によって発生する。そのため病院ではMRI検査の前に患者に入れ墨の有無を確認することがある。ただし、このような事例は平成以降に製造されたタトゥーインク(酸化鉄などをチタンなどの磁性を帯びない金属で代替しているインク)の場合には稀であり[29]アメリカ食品医薬品局は火傷のリスクに比べてMRIによる診断を行う有用性の方が非常に高いとしている[30]。MRI撮影を行う場合でも、入れ墨がある部分に冷却材などを当て、医療従事者が細心の注意を払い、異常があれば即座に撮影を中断できるような体制を作ることが求められる[31]
感染症

オートクレーブ等の殺菌方法では、血液中の全ての種類のウイルスを死滅させることはできないため、施術用の針やインクの再利用は感染症の原因となる。そのため、血液の付着する施術用の針やインクは使い捨てにする必要がある。

安全管理が不十分な場合、B型肝炎C型肝炎HIVに感染する場合がある[32]ほかアレルギー[33]肉芽腫[34]の発症が報告されている。
入れ墨の除去

美容外科では入れ墨の除去手術が行われている。その方法としては、皮膚の表面を削りガーゼ等で顔料を吸い取る、自家植皮をする、レーザーで色素を分解する、入れ墨が小さい場合には縫い合わせる、といったものがある。入れ墨の除去手術をしても手術痕は残る上、複数回の手術が必要となるため患者は苦痛に耐え続けなければならず、健康保険が適用されないため多額の費用も必要であり、種々の困難を伴う。入れ墨を施す際には、除去手術が極めて困難であることを十分に考慮する必要がある。
日本における入れ墨
入れ墨の歴史
上古まで

縄文晩期・弥生期の日本は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}世界でも有数の入れ墨文化を有していたと考えられている[誰によって?]。紀元前1500年頃より、縄文時代の土偶には入れ墨を思わせる紋様が描かれている。縄文人と文化的関係が深いとされる蝦夷アイヌ民族の間に入れ墨文化が存在(後述)したため、これも縄文人による入れ墨の習慣の傍証とされる。

続く弥生時代にあたる3世紀倭人(日本列島の住民)について記した『魏志倭人伝』には、「男子皆黥面文身」との記述がある。黥面とは顔に入れ墨を施すことであり、文身とは身体に入れ墨を施すことであるため、これが現在確認されている日本の入れ墨の最古の記録である。同書には水に潜って漁をするときのまじないとして入れていたものが装いに転じ、地域や階級によって刺青が異なるとも書かれている。

また『魏志倭人伝』と後の『後漢書東夷伝』には、

「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」(魏志倭人伝)

「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」(後漢書東夷伝)

と、共通した内容の入れ墨に関する記述が存在し、入れ墨の位置や大小によって社会的身分の差を表示していたことや、当時の倭人諸国の間で各々異なった図案の入れ墨が用いられていたことが述べられている。魏志倭人伝ではこれら倭人の入れ墨に対して、中国大陸の長江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗との近似性を見出し、『断髪文身以避蛟龍之害』と、他の生物を威嚇する効果を期待した性質のものと記している。

古墳時代4世紀になると入れ墨を施した埴輪(黥面埴輪)が登場するようになるが、6 - 7世紀ごろになると入れ墨の文化は徐々に廃れていくものとなる。

古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。これは『古事記』の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述[35]を論拠とするものである。

さらに、『日本書紀』には蝦夷が入れ墨をしているという記述があり、全員入れ墨をしていたという邪馬台国大和朝廷とでは、入れ墨に関して正反対の態度が窺える。

これに対して、顔に入れ墨と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土[36]している例や、出土地域による図案の違いから、類型化もなされている事実などが反証として挙げられている。

ただし、近年の研究ではアイヌの入れ墨は縄文の形式を踏襲したもので、弥生時代・古墳時代の黥面は大陸側の龍文化の影響を受けて成立していたことが示されており、日本列島の東西黥面文化さらに大陸文化が混じることで、古代日本のいれずみ文化が形成されていたことが指摘されている。また、『古事記』『日本書紀』にみる黥・文身の内容は事実の記録ではなく、当時の国際情勢から政治的に操作されての記述であることが指摘されている[37]
奈良時代 - 戦国時代

古代の日本における入れ墨の習俗が廃れるのは、王仁および513年百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられる。

遣唐船の乗組員に入れ墨の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた入れ墨を入れており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の目的で広く入れ墨が施された。

この他、蝦夷隼人といった人々や儒教と対立した密教の僧侶によって、入れ墨の技術が継承された。山岳仏教出身者であり書寫山圓教寺を開いた性空は、胸に阿弥陀仏の入れ墨を入れていた。


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