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飛鳥時代奈良時代から平安時代前期にかけての甲冑は、伝存資料や遺跡からの出土資料がきわめて少なく実像の不明な部分が多いが、岩手県紫波郡矢巾町徳丹城では、2006年(平成18年)4月?11月の第65次発掘調査で、トチノキを用いた木製冑が出土している[3]。この冑が出土した井戸は、9世紀(平安時代前半)に掘削・使用されたものだったが、冑そのものは、放射性炭素年代測定の結果、7世紀(古墳時代末?飛鳥時代)に製作されたものと判明した[4]
平安時代半ば以降

天辺の穴

平安時代大鎧が用いられる頃になると矧板鋲留鉢がその製作の簡便さからよく用いられるようになり、鋲頭を星と呼ばれる突起物で装飾した星兜が隆盛し後室町時代まで一般に用いられるが、南北朝時代からは星を用いない筋兜が見られ、室町時代に全盛期を迎えるようになる。

こうした兜は顔面を覆っておらず、兜で守られていない顔面部は「内兜」とよばれ、弓で射るべき対象の一つとされていた。この弱点を補うために錣を折り返した吹返が誕生した。

また、平安時代から鎌倉時代までは、こうした兜鉢の頭頂部に「天辺の穴」(てへんのあな)と呼ばれる4-5cm程の穴があいていた。当時はを結いをつくって烏帽子を被り、天辺の穴から烏帽子を被せた髻を出していた為で、『平家物語』にはこの穴より矢を射かけられぬよう注意を促す一文がある。

髻を結わぬようになるとこの穴は縮小されるようになるが、装飾として、または「息出しの穴」と呼ばれたように、頭部が蒸れるのを防止する等の効用もあり、完全には消滅しなかった。
当世兜

室町時代の終わり頃から浮張の発達により阿古陀形兜のような斬新な形状の兜があらわれた。

群雄割拠する戦国時代においては、鉄板を打ち出して兜そのものを奇矯な形にしたり、「張貫」とよばれる張子を取り付けて威容を誇るなど、さまざまな意匠を凝らした兜が登場し、こうした兜を総称して「当世兜」と呼んでいる。この時代になると吹返はその意義を失い、装飾的に取り付けられるに留まる。織豊期には、兜で誰なのかわかるよう意匠を凝らしているが、行軍用と合戦用の二種類つくられることもあった。前田利家の兜は、合戦用の兜は、行軍用の兜をスケールダウンして、動きやすいものになっている。
形式

星兜

筋兜

頭形兜

阿古陀形兜

突?形兜

桃形兜

変わり兜

畳兜

変わり兜の有名な戦国武将

井伊直政 - 天衝脇立朱漆塗頭形兜

加藤清正 - 長烏帽子形兜

蒲生氏郷 - 銀鯰尾兜

黒田孝高 - 朱塗合子形兜

黒田長政 - 水牛脇立桃形兜→一の谷兜

武田信玄 - 諏訪法性兜

伊達政宗 - 弦月前立黒漆塗六十二間筋兜

藤堂高虎 - 黒漆塗唐冠形兜

徳川家康 - 歯朶獅噛輪貫前立大黒頭巾形兜

豊臣秀吉 - 馬藺後立一の谷兜

直江兼続 - 愛染明王前立六十二間筋兜

福島正則 - 一の谷兜→水牛脇立桃形兜

本多忠勝 - 鹿角脇立黒漆塗兜

前田利家 - 銀鯰尾兜

画像

当世兜

旧来住家住宅展示品



吹返





黒田長政

名古屋市中村区中村町字木下屋敷の妙行寺内にある加藤清正

欧州の兜古代ギリシャコリュス式の兜

古代ギリシャの「カタイーチュクス」という兜は、青銅製で革に猪の牙を張ったものであった。映画などで有名な、T字型の鼻あてを持ち、鶏冠や孔雀のような羽飾りを持つ古代ギリシャの兜は「コリュス」、もしくは「コリント式」兜と言われ、ローマ時代になって耳が露出し開口部も大きく取られ命令や周囲の状況がよくわかるように改善された。これらは青銅で作られ、場所や時代によって様々なデザインが異なる。一体型のコリュスは後に改良され、帽体、頬当て、うなじあてに分割されるようになる。

ヴァイキングの兜は半球形か、頭頂部の尖った砲弾型をしており、前から後ろへ峰のあるものに、眼鏡状の顔当てをつけた物が多い。中世ノルマン人も同様に半球形、頭頂部の尖った砲弾型、前から後ろに峰のあるものを使ったが、こちらはネイザルという長い鼻当てを付けた。後頭部は鎖によって覆われていた。日本人はこの長い鼻当てはあまり必要の無いように思われるが鼻の高い欧米人には簡単ながらも防御性のある構造だった。

イングランド北部にある遺跡、サットン・フーの出土品の中には 人の顔を模した面が付けられた兜が出土しているが、全世界的に見て、こういった豪華な装飾が施されたものは 王族将軍などが身につけていたか、祭典・儀式に使われたものが多いと言われている。たてがみやツノといった 装飾は、強そうに見えたり、見た目の良さや威厳の象徴としては効果的だが、実際の戦闘には邪魔になるだけだからである。

それからしばらくすると、グレートヘルム、バレルヘルムと呼称される、バケツ型、樽型兜が出始める。円筒形で目と呼吸口はスリットになっており、十字軍が好んで着用し、大きく縦と横に二本の線が入った十文字の装飾がされる場合もあった。顔全体を覆う事によって、過去の兜に比べ防御性能は格段に上がったが、一方で視界は大きくさえぎられてしまい、熱がこもってしまうという欠点を持っていた。このタイプの後期には蝶番で顔が開くものが出ている。バシネット(ミラノ、1400?1410年)

鉄板と鎖を繋げて作られる鎧、チェインメイルが板金にとって替わられるようになると兜も変化した。バケツ型は再び砲弾型になり、バシネット(en:Bascinet 水鉢の意)と呼ばれる。

顔面は鳥のくちばしのように円錐状に突き出ており、これをハウンスカル(hounskull,犬面)と呼んだ。この形状は正面からの攻撃をそらすのに有効であり、またここに空間を持つことで呼吸が楽になる。顔面部分(面甲)は可動させて不要なときは跳ね上げておくこともでき、取り外すことのできる物もある。こうした尖った意匠は当時のドイツ甲冑における著しい特徴でもあった。

一般的に、 カマイル(Camail)と呼ばれる鎖錣をつけている。このカマイユに鼻当てをつけて額の部分と連結させるものもある。

しかしこういった複数のパーツからなる兜は当然ながら高価で、すべての兵士に支給されたわけではなく 先述したように視界が狭いため、一般的な兵士はもっと簡単な作りの兜(例えばケトルハット 英: en:Kettle hat )を着用していたようである。

中世後期、全身を覆うプレートアーマーが登場すると、兜も頭部を完全に覆うようになり、特にサーリット(独:シャーレルン)が一般的な兜として普及した。深い鍋を逆さに似たような形状で、鼻の下、もしくは顎まで覆われたフルフェイス型になっており、細いスリットを通して視認する。この場合、首を防護するためにハイネック型になっている鎧を着用するか、ゴージットと呼ばれる頸鎧を装着する。これらは防護性が増した反面、運動性や周囲の状況の視認性に劣り、戦いは集団戦から騎士が個人の名誉を掛けて闘う個人戦に移行して行った。

中世晩期から近世初期、16世紀から17世紀にかけては、アーメット(en:Armet)と呼ばれる 人の顎と干渉することで顎紐が無くとも兜が脱げ落ちないように設計されているものがあり、これを総称してクローズ・ヘルムと呼ぶ。

クローズ・ヘルムには縦長のスリットがついた部位がある。上のスリット部分と下の顎部分があり、それぞれを別々に稼動させ、上下のほかに前に突き出したり、観音開きのように開くものもある。
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王冠付きの兜

イタリアのアレッツォで開催される中世の馬上槍試合を模したサラセン人の馬上槍試合(英語版)での衣装

左同

トーナメントに参加する騎士、マネッセ写本

トーナメントに参加する騎士2、マネッセ写本

起源14世紀のオーストリア貴族アルベルト・フォン・プランクの兜

オスマン帝国の兜チチャク(cicak)

オスマン帝国の兜チチャクから発展して、ヨーロッパの騎兵を中心に広まった兜ツィシェッゲ(Zischagge, en:Lobster-tailed pot helmet)


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