児井プロダクション
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その後、1957年から石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』、小林旭の「渡り鳥シリーズ」、吉永小百合浜田光夫主演の『愛と死をみつめて』などのヒット作を連発、ヒットメーカーとして名を馳せた[2]

1967年に江守清樹郎専務らが経営不振の責任を取って退陣して児井も孤立[14]。1968年の『女の手配師 池袋の夜』が日活での最後の作品となった。その前後に日活の外注作品として青山プロ名義で3本のピンク映画を製作し、大ヒットを飛ばす[15][16][17]。1970年(昭和45年)、日活との契約を解消してフリーランスとなり、映画界から引退した[4][15]。1986年(昭和61年)、勲四等瑞宝章を受章した[4]

1992年(平成4年)3月10日東京都渋谷区恵比寿の病院で死去した[2]。満83歳没。
人物

娘2人をもうけており、長女はタレントの鈴木ヤスシの妻である[18]

慇懃無礼と言われるほどの誰に対しても丁寧な話しぶりで[19]、渾名は公卿、麿呂さま[20]。寝業師、おとぼけの児井、怪人、伝説の人の異名もとった[21][22]

日活時代は、『月は上がりぬ』を除いて、どのプロデュース作品も製作費は会社が出しているという日活側の意向で、製作としてはクレジットされず、企画としてクレジットされている[23]

香港赴任中は、ナチス・ドイツプロパガンダ映画を見て宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの宣伝手腕を研究したと語る[24]

ヌード写真エロ本張形のコレクターだった[22][25]浅草ロック座ストリッパーの児井しのぶは、児井の名前から取られた。児井の友人の風俗記者の広岡敬一による命名[26]

1990年1月31日深夜に自宅が全焼し、児井が保管していた写真や日記などの貴重な映画資料、コレクションしていた猟奇本やエロ本が焼失[18]。加えて、児井が製作したピンク映画『女浮世風呂』もこのときにフィルムが失われ、現存しないものと見られていた[27]が、別ルートでフィルムが発見されており2020年に再公開された。
児井プロダクション

名称 : 株式会社児井プロダクション

所在地 : 東京都
港区南青山2-5-6

代表 : 児井英生

設立 : 1950年(昭和25年)

1968年(昭和43年)「青山プロ」名義で3本を製作した。

おもなフィルモグラフィ
監督・脚本家時代

特筆以外「児井英男」名義。特筆以外はトーキーである。

『敵討三都錦絵』、日活太秦発声映画、1935年 - 監督

大久保彦左衛門』第二篇、日活・太秦発声映画、1936年 - 監督・脚本

『あばれ長脇差』、甲陽映画 / 千鳥興業、サウンド版、1936年 - 監督

『青葉城異変』、今井映画製作所 / 東宝映画、1937年 - 監督・脚本

吉良の仁吉』、今井映画製作所 / 東宝映画、1937年 - 監督

『海の大将軍』、今井映画製作所 / 東宝映画、1937年 - 監督

『大江戸春の夜話』、今井映画製作所 / 東宝映画、1938年 - 監督

『鬼吉喧嘩往来』、今井映画製作所 / 東宝映画、1938年 - 監督・脚本

俵星玄蕃』、今井映画製作所 / 東宝映画、1938年 - 監督・脚本

『戦国一番侍』、東宝映画京都撮影所、1938年 - 監督

『相馬の金さん』、監督稲葉蛟児、東宝映画京都撮影所、1938年 - 脚本

『三巴姫君小姓』、監督後藤昌信、大都映画、1939年 - 原作 高樹彦九郎名義

『両国誉れの名槍』、監督後藤昌信、大都映画、1941年 - 原作・脚本 高樹彦九郎名義

プロデューサー時代


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