光武帝
[Wikipedia|▼Menu]
任光・李忠・萬脩・??・劉植・耿純は後世に雲台二十八将として名を連ねることとなった。

劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王劉楊(『漢書』に拠る。『後漢書』は、「劉揚」に作る)への工作を開始し、劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊のの郭聖通(のちの郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。

こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢蓋延王梁(以上漁陽)、景丹寇恂耿?(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。これにより勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎を討ち取った。

劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。その後は銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。
即位

25年建武元年)、河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位して漢(後漢)を建国、元号を建武とした。

この年、更始帝は西進してきた赤眉軍に降伏後殺害される。その赤眉軍も長安やその周囲を略奪し、食糧が尽きたことにより山東への帰還を図った。27年(建武3年)、大司徒ケ禹・征西大将軍馮異率いる後漢軍は赤眉軍を攻撃し、一旦は敗北した馮異は、その敗れた軍を立て直して赤眉軍を撃破、西への退路を絶ち、東の宜陽で待ち構えていた後漢軍は戦うことなく、兵糧の尽きた赤眉軍を破って配下に入れた。

30年(建武6年)には山東を平定、33年(建武9年)には隴西を攻略し隗囂は病み且つ餓えて死し、継いだ子の隗純を降伏させ(34年建武10年)、36年(建武12年)に公孫述を滅ぼし、ここに中国統一を達成した。
統一後

光武帝は洛陽を最初に都城と定め、長安を陥落させた後も、荒廃した長安に遷都することなく洛陽をそのまま都城とした。漢王朝を火徳とする光武帝は洛のサンズイを嫌い、洛陽を?陽と改めた[2]

また光武帝は中国統一と前後して奴卑の解放や租税の軽減、軍士の帰農といった政策により王朝の基礎となる人民の生活の安定を図る一方、統治機構を整備して支配を確立した(後述)。

56年建武中元と改元して封禅の儀式を実施し、その翌年に崩御した。
政策
民政・財政

前漢末以来の混乱で中国は疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに減少していた[3]。この対策として光武帝は奴卑解放および大赦を数度にわたって実施し、自由民を増加させることで農村の生産力向上と民心の獲得を図った。徴兵制を廃止して、通常は農業生産に従事させ有事に兵となす屯田兵を用い、生産と需要の均衡が崩壊したことによる飢饉や、辺境への食料輸送の問題を緩和した。

人民の身分に関する政策としては上記の奴卑解放令の他、35年(建武11年)には「天地之性、人為貴。(この世界においては、人であることが尊い)[4]」で始まる詔を発し、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言したことが挙げられる。また31年(建武7年)に売人法、37年(建武13年)に略人法を公布し人身売買を規制した。

租税については、それまで王朝の軍事財政の不足を理由に収穫の1/10としていたのを30年(建武6年)に前漢と同じく1/30とし、人民の不満の緩和を図った。この減税が可能となった背景として、屯田の施行により兵士の糧食を確保できるようになったことがある。

徴兵を帰農させた後、39年(建武15年)に耕地面積と戸籍との全国調査を施行し、人民支配の基礎を固め、国家財政を確立した。もっとも、この耕地・戸籍調査の際には首都のある河南郡や皇帝の郷里である南陽郡で不正申告がおこなわれた。両郡の豪族が権勢を有していたことを示す事件である。また調査に不満を抱いた地方豪族が農民を糾合して反乱をおこすこともあった。

王莽が貨幣制度を混乱させたため後漢初期には粗悪な貨幣が流通していたが、40年(建武16年)には前漢武帝以来の五銖銭の鋳造が始められ、貨幣制度が整備された。以上により統一王朝としての後漢王朝の実体がほぼ備わった。
統治機構

光武帝期における統治機構の整備としては次のようなものが挙げられる。

後漢は前漢の統治機構を踏襲して郡国制を採用したが、諸侯王・列侯の封邑は前漢に比してきわめて小さいものであった。諸侯王の封邑も1郡に過ぎず、功臣を封侯しても多くとも数県を与えるのみであった。王莽が廃した前漢の諸侯王で光武帝の即位時に地位を回復されたものも37年(建武13年)には列侯に格下げされ、その後に光武帝期に諸侯王とされたのはかれの同族たる南陽舂陵の劉氏一族と皇子たちのみであった。

中央政府には大司徒大司空大司馬三公を政治の最高責任者として設けた。もっとも、政治の実務上は皇帝の秘書たる尚書が重用された。その他、官制・軍制については役所を統廃合して冗官の削減を実現し、31年(建武7年)には地方常備軍である材官・騎士などを廃止して労働力の民間への転換を行うなどしている。混乱期の将軍も多くが解任され、小規模な常備軍を準備するに留め、財政負担の軽減を図っている。

また財政機関の再編成として、前漢では帝室財政を所管していた少府の管掌を国家財政の機関たる大司農に移し、帝室財政を国家財政に包含させたり[5]、前漢では大司農に直属していた国家財政の重要な機関である塩官・鉄官を在地の郡県に属させるなどした[6]
儒教の振興

光武帝の施策の政治的・思想的特色のひとつとして儒教を振興し、学制・礼制を整備したことが挙げられる。29年(建武5年)、洛陽に太学を設けて儒学を講じさせたり14名の五経博士を設けた[7] 他、時期を同じくして各地に私学が設けられ、当地の学者が門弟を集めて経書を講義するようになった[8]

また、官吏登用制度たる郷挙里選においては孝行・廉潔を旨とする孝廉の科目が重視され、36年(建武12年)には三公らが毎年一定数の孝廉を推挙するよう規定された[9]。さらに56年(建武中元1年)には洛陽に教化・祭礼の施設として明堂・霊台・辟雍を設置した。

光武帝が統治の根拠とした儒教は讖緯説と結合したものであった。前漢後期以来盛んに行われた讖緯説は予言などの神秘主義的な要素が濃いものであり、王莽もこれを用いた。光武帝は即位時に上述の『赤伏符』の予言に拠った他、三公の人事[注釈 2]や封禅の施行の根拠として讖文を用いたこともあり、讖緯説を批判した儒学者は用いられなくなった[11]。最晩年の57年(建武中元2年)には図讖を天下に宣布することを命じた。
対外政策

対外関係においては次のような施策をおこなった。

東方では朝鮮半島楽浪郡で後漢初頭以来の自立勢力を30年(建武6年)に討ち、郡県制による直接支配をおこなう一方、半島東方の首長を県侯に封じたり半島南部からの入貢者を容れて楽浪郡に属させるなど、直轄することを放棄した地域では間接支配をおこなった。王莽が侯に格下げした高句麗32年(建武8年)に後漢に朝貢し、前漢末以来の王号が復活された。また57年(建武中元2年)には倭の奴国(委奴国という説もある)の使者に対し金印を授けている。これが江戸時代に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。

西方では35年(建武11年)に侵攻してきた族を馬援に撃たせ、降伏した者を天水・隴西・右扶風の内郡に移住させて郡県の管轄下に置いた。

南方では40年(建武16年)に交阯(現ベトナム北部)で生じた徴姉妹の反乱に対し、馬援を派遣してこれを鎮圧している。馬援は武力行使の一方で城郭の修復や灌漑用水の整備による農業の振興などをおこない、また当地の慣習法を漢法に優先させるなどし、郡県制の整備にあたって現地の習俗を尊重した。

北方では匈奴が王莽の強硬な外交政策に反発して以来勢力を増していた。光武帝は30年(建武6年)に和親の使者を送ったが、匈奴の侵寇は続いた。ところが48年(建武24年)に匈奴が内部抗争により南北に分裂し、南匈奴が後漢に帰順した。この分裂により烏桓鮮卑は匈奴から離脱した。光武帝は49年(建武25年)に烏桓の酋長を侯王に封じ、鮮卑の朝貢も受けた。北匈奴は後漢と和親して南匈奴を弱体化させるべく51年(建武27年)に使者を遣わした。光武帝は和親を認めず、一方で北匈奴を討伐する策もしりぞけ、絹帛などを与えて懐柔するにとどめた。
評価

南朝元帝の『金楼子』は、諸葛亮の見解として「光武帝の部将は韓信周勃に引けを取らず、謀臣は張良陳平に劣らないが、光武帝が神の如き知謀を持ちみずから深謀遠慮を有していたため臣下は難事を未然に防ぐという賞賛されにくい功を挙げることとなった。いっぽう高祖は粗略であったために張良・陳平・韓信・周勃が(奇策や攻略といった)賞賛されやすい功を挙げることとなった」[12] と記す。

資治通鑑』の著者司馬光は、「武力による天下統一から日を置かずして儒学を振興した光武帝の志は明帝・章帝に受け継がれ、200年後の曹操すら恐れて簒奪できなかったとし、の三代が滅んで以来、教化による美風は後漢において最も盛んであった」と論じている[13]
人物

体形や容姿については身長7尺3寸(168 cm)、王莽の納言将軍厳尤は降兵を尋問したおり、劉秀について「これ、須(あごひげ)と眉の美しき者なるか」と述べ、朱?は宴席で「公には日角の相有り(額の上部が隆起して、太陽の如き角に見える)」と述べたことが伝わる。

新朝の天鳳年間に長安で『尚書』を修め、ほぼ大義に通じたという。周囲からは謹直な人物と見られており、兄の劉?が挙兵した際に「伯升に殺される」と恐れて協力を拒んだ者たちが、劉秀も挙兵することを知り「謹厚な劉秀も挙兵するのか」と驚き、かつ安んじたという。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:53 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef