寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。
寛政12年1月22日(1800年2月15日)、欣子内親王との間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日(3月31日)に儲君に治定するも、翌月4月4日(4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日(1807年8月21日)に儲君に治定し、文化6年3月24日(1809年5月8日)に皇太子とした。
文化14年3月22日(1817年5月7日)、恵仁親王に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる。なお、202年後の平成31年(2019年)4月30日に退位した第125代天皇明仁は太上天皇ではなく天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく「上皇」の地位でこれが正式な称号であるため、現在でも光格天皇が最後の太上天皇である[注釈 4]。
天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算70。 光格天皇は博学多才で、学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜み、父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。 また、中御門天皇系の傍系・閑院宮の出身であるためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。その例として、400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や新嘗祭など、朝廷の儀式の復旧に努めた[5]。さらに、平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想したが、在位中には実現せず、次代の仁孝天皇に持ち越されることになった(学習院 (幕末維新期)参照)。 寛政9年11月7日(1797年12月24日)には善光寺の等順より、三帰戒及び十念を授け奉られている[6][7]。 光格天皇の系譜
人物
系譜
16. 第112代 霊元天皇
8. 第113代 東山天皇
17. 松木宗子
4. 閑院宮直仁親王
18. 櫛笥隆賀
9. 櫛笥賀子
19. 西洞院時成
2. 閑院宮典仁親王
5. 左衛門佐讃岐
1. 第119代 光格天皇
6. 岩室宗賢
3. 大江磐代
7. りん
系図
天皇家系図