光厳天皇
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在位3年目の正慶2年(1333年)春頃から後醍醐による倒幕運動が活発となり、同年5月には、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏による攻撃を受け、避難していた六波羅探題邸が陥落する。幕府軍と共に東国へ逃避行をするも、近江国番場(現:滋賀県米原市)にて幕府軍全員が自害し、自身も逮捕された。そして、後醍醐に廃位されてしまう。(→#廃位

しかし、建武3年(1336年2月、後醍醐天皇方を離反し敗走していた尊氏に対し、後醍醐天皇方である新田義貞追討を命じる院宣を与えた。そして、義貞を破った尊氏の反撃によって後醍醐の建武政権が崩壊すると、治天の君、すなわち事実上の日本君主に返り咲いた。同年8月に弟の豊仁親王を践祚させ(光明天皇)、北朝が開かれる。吉野に逃れた後醍醐を頂点とする南朝も開かれ、二人の天皇が立つ南北朝時代となったが、序盤より北朝が優勢を獲得した。(→#恢復

光明と皇子崇光天皇の在位中は院政を敷き、新たに成立した室町幕府と協調しながら法整備や撫民政策を実行した。幕府と協調した徳政は、貞和徳政と称されている。天龍寺安国寺利生塔の建立にも関与した。また、和歌にも力を入れ、勅撰和歌集である『風雅和歌集』を自ら編纂するなどした。(→#治世

ところが、足利将軍家の内訌である観応の擾乱が起き、観応2年(1351年11月、尊氏が南朝に降伏して正平一統が成ると、北朝は一時的に廃止された。崇光は廃位され、光厳院政も停止された。さらに翌年には、南朝によって大和国(奈良県)の山奥である賀名生拉致されてしまう。(→#正平一統と三上皇拉致

程なくして北朝は復活することとなるが、皇子である弥仁王践祚の計画に失望して幽閉中に出家し、禅宗に帰依した。延文2年(1357年)2月、帰京。晩年に持明院統の相続を定め、その後の伏見宮[注 8]の成立や存続に深く関与している。(→#出家と帰京#伏見宮との関係

その後丹波国山国(現:京都府京都市右京区)に常照皇寺を建立し、同地で修行して悟りを得た。貞治3年(1364年7月7日、常照皇寺にて崩御宝算52(満51)。(→#晩年・崩御

南北朝合一以降も、自身の皇統が独占して天皇を輩出していくことになるが、明治44年(1911年)、自身の子孫である明治天皇が世論の煽りを受けて南朝の天皇を正統とした結果、『皇統譜』から除外され歴代天皇の地位を消失した。(→#歴代天皇からの除外

その生涯は、始終乱世に翻弄され、さらに最終的には二度も皇位を否定されるなど、天皇としても数奇なものであった[22]。しかし、そのなかでも花園上皇の教えを守り、真摯に政務に向かったとされる[23]。光厳は、治天の君として民衆を思いやり[24]、生涯にわたって君主としての責任を果たそうとした天皇と評価されているが[24][25]、「したたか」な為政者像も提示されている[26]。(→#人物評
生涯

※和暦を原則としつつ、()の中に西暦年を併記した。なお、特段必要の無い場合南朝元号は併記せず、北朝元号を使用した。
※「光厳天皇」は没後に定められた称号であるが、生前の記述においても、在位中は「光厳天皇」、譲位後は「光厳上皇」、出家後は「光厳法皇」とする(践祚前は諱)。なお、ほかの主な呼称については基礎情報欄の「別称」を参照。
※特記する必要のない場合や登場二回目以降の場合は、光厳上皇→光厳、足利尊氏→尊氏といったように人物名を略式にした。
※注意がない場合、年齢は数え年である。
誕生父の後伏見上皇

後伏見上皇の第三皇子として、正和2年(1313年7月9日辰の刻に誕生[27]。場所は権大納言一条内経の一条第[4]。父後伏見は、持明院統の次期当主であり、母寧子は、当時朝廷で権勢を誇っていた西園寺家出身の正妃であった[28]。持明院統の正嫡としての誕生である[29]

7月17日に花園天皇より生衣を賜り、皇子は同年8月17日に親王宣下され、「量仁」(かずひと)と命名された[30][31]


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