元老院_(ローマ)
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習慣的に、「元老院議員、及び、元老院で所見を述べることを許されたものたち」という呼び方で召集され[23]、定期的な会議には出席することが求められたが、公務で欠席するものも多く、定足数は、総数の1/3から1/2程度であった[24]。また、現役の政務官は議決に加わることが出来なかった[25]

決議が有効とされるには、アウグルによって聖別された場所で開催される必要があり、クリア・ホスティリアクリア・ユリアといった議事堂や、神殿を利用することができた[26]。中央通路の両脇に、コンスル経験者やプラエトル経験者といった、同じランクのものが固まって座り、通路奥の少し高くなったところに、召集したコンスルやプラエトルが座って議長を務め、各議員が「誰々の意見の方へ行く」と言って、自分の支持する発言者のいる側へ移動する形式で、動きやすいように椅子ではなくベンチを利用していたと思われ、議長は「こちらの方が多く見える」と、中央通路で分離された座席のうち、議員が多くいる側を指して採決する[27]。採決のために移動することを、「両足で意見の方へ行くこと(pedibus in sententiam ire)」と表現した[28]。ペダーリイー(足たち)と呼ばれる、明らかに格下の議員たちもいたが、日没には閉会するため、時間の関係でランクが低いものは発言の機会もなかったと思われる[29]。逆に、小カトのように、シビュラの書を管理する委員会や、アウグルや神祇官といった神官職は、政務官未経験であっても、プラエトル経験者の席で発言出来たものと考えられている[30]。議員の息子たちは、扉口から中の様子を覗うことができた[31]

通常の元老院は議事堂に召集されたが[32]、毎年新年の頭には、新しいコンスルによってカピトリウムのユピテル神殿に召集され、そこで職能範囲(属州)決定のためのクジ引きや、ローマ軍団インペリウムの割り当てが決議され、友好国からの使節の挨拶を受けていた[33]。カピトリウムのユピテル神殿は新年以外にも使われることがあり[34]、他にも、ポメリウム内では、フォルム・ロマヌムカストルとポルックス神殿コンコルディア神殿[35]、ユピテル・スタトル神殿が使われることもあった[36]

非同盟国からの使者を迎える場合や、インペリウムを保持したまま市内に入ることが出来ない政務官代理が凱旋式を希望した場合のために、ポメリウムの外で召集されることもあり、紀元前431年に建てられたアポッロー神殿や、その隣にあったと考えられている、ベッローナ神殿が利用された[37]。アポッロー神殿は当時のコンスル、ガイウス・ユリウス・メントが奉献し[38]紀元前32年ガイウス・ソシウスが再建しており[37]、ベッローナ神殿はアッピウス・クラウディウス・カエクスが誓約したものである[39]紀元前57年以降、グナエウス・ポンペイウスが連年インペリウムを保持するようになると、ポメリウム外での元老院開催が重要なものとなり、紀元前52年ポンペイウス劇場が完成すると、紀元前49年までは、その中にあったクリア・ポンペイアが常用された[40]
バックス教団弾圧紀元前186年のバックス祭りに関する元老院決議の碑文。美術史美術館

第二次ポエニ戦争に勝利したローマに、イタリア半島南部のマグナ・グラエキアエトルリアから古代ギリシアの宗教が流入し[注釈 1]ティトゥス・リウィウスは、あらゆる不道徳に手を染めるバックス教団から逃れようとする、若い男女のドラマチックな物語を展開しているが、本来市民権を得てすぐ、17才から兵士となるべき若者が入団したことを元老院が憂慮したと思われ、紀元前186年、この教団に対するセナトゥス・コンスルトゥム(元老院決議)が行われた[42]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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