元禄地震
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元禄地震
元禄地震の震度分布[1]
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震央の位置
本震
発生日1703年12月31日
発生時刻2時前後 (JST)
震央 日本 房総半島南方沖 (野島崎沖)[2]
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度42分 東経139度48分 / 北緯34.7度 東経139.8度 / 34.7; 139.8座標: 北緯34度42分 東経139度48分 / 北緯34.7度 東経139.8度 / 34.7; 139.8[2]
規模   M8.2
最大震度   震度7:相模安房
津波太平洋沿岸、特に房総半島東海岸
地震の種類海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数死者 6,700人以上
被害地域関東諸国:武蔵相模下総上総安房

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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元禄地震(げんろくじしん)は、元禄16年11月23日1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震

震源相模トラフ沿いの東経139.8度、北緯34.7度の地点[注 1]と推定され、房総半島南端の千葉県野島崎付近にあたる。 地震の規模(マグニチュード)はM7.9?8.2と推定されている[3]。元禄大地震(げんろくおおじしん、げんろくだいじしん)あるいは元禄の大地震(げんろくのおおじしん)とも呼ばれ、大正関東地震に対比して元禄関東地震(げんろくかんとうじしん)の名称もしばしば使用される。

大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、規模や震源域、地殻変動などは大正関東地震よりも大きいものであった[1][注 2]。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。

江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震噴火が続発した時期であり、本地震の4年後の宝永4年(1707年)にはM 8.4-8.6(Mw 8.7-9.3)と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生している[4][5][6][7]
地震動

元禄十六年癸未十一月二十三日乙丑刻(二十二日甲子夜丑刻)(1703年12月31日午前2時頃)関東地方諸国は激しい揺れに襲われた。古記録には日付が「二十二日夜丑刻」あるいは「二十二日夜八ツ」と記されているものも多く[8]、当時は一日の境界は厳密でなく、「夜丑刻」と現せば現代の暦法でいう夜半過ぎの翌日、丑刻の事を指す[9][10]

楽只堂年録』には「今暁八つ半時希有の大地震によりて吉保吉里急て登城す、大手乃堀の水溢れて橋の上を越すによりて供乃士背に負て過く、昼の八つ時過に退出す、夜に入て地震止されば四つ時吉保、登城して宿直す」とあり、江戸城大手門付近のの水が溢れるほどであったと記録されている[8]

尾張藩の御畳奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』には「丑二点地震。良久敷震ふ。而震返しあり。」とあり、名古屋において長い地震動があり、余震があったことが記されている。また、公卿近衛基熙の日記である『基煕公記』には「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、夜中に発光現象があったことが記されている[11]。更に、甲府徳川家に仕えていた新井白石は『折りたく柴の記』において「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ、…」と地震の体験談を記している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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