地方直には、
江戸に隣接する地域や生産性の高い地域、広大な山林や多額の運上金が上がる地域を幕領に編入する
年貢米を江戸に運搬して旗本に配分する経費を削減する
旗本の領主権を制限して年3割5分の年貢徴収権に限定する
などの目的があったとされる。
当時の幕府は、天領からの年貢収入が年間76万から77万両、そのうちの30万両余が幕臣に支給する蔵米だった[9]。天領から米を運搬する費用がかかる蔵米給付の方が幕府にとっての財政負担は大きい一方、当時の武士は蔵米取よりも知行取の方が格上と考えており、蔵米支給から知行取に変わることを旗本たちは出世ととらえ、幕府も知行取への変更を褒賞の一環としていた。地方直は、幕府にとって財政改善策であり、旗本にとっては格が上がる名誉な出来事という意味合いがあった。
しかし、知行取は凶作の年には石高分の収入を得られず(検見法の場合)、また収穫された米の運搬は領主の自己負担となるため、地方直は幕府だけが経済的に得するという批判は当時からあり、老中の戸田忠昌も凶作時の問題を考えて、稲作の後進地域である関東を旗本の知行地にすることに難色を示したという[10]。
徳川綱吉政権は、在地に密着した世襲の代官を処罰して勘定所から派遣された官僚的な代官を増やし、同時に代官や改易・減封処分された大名の処分後の領地・支配所の検地を実施、以前よりも生産性が増えた耕地の石高を増加させるなどの農政改革を行ってきた。綱吉が5代将軍に就任した延宝8年(1680年)の天領の石高は326万2250石余・年貢量94万2590石余だったが、地方直の後の元禄10年には石高434万6500石余、年貢量138万6400石余へと増加している[11]。
また、歴史学者の所理喜夫たちによれば、地方直には旗本が知行地と密接な小大名となることを阻止し、官僚予備軍として再編成する効果もあったと評価している。知行所を与えられた旗本たちは、開幕当初から約100年間に領地の村民たちとの主従関係を強めていったが、それらの結びつきは地方直を行うことで全て無効化してしまうからである。
脚注^ 蔵米は、春と夏に4分の1ずつ、冬に残りの2分の1を支給された。
^ 蔵米のみの支給を受けていた者240名、知行地と蔵米の両方から支給をされていた者が302名。
^ 大田南畝編『竹橋余筆別集』では523名。大舘右喜の研究では543名、除外や他資料による算入などで542名を「検討対象」としている。
^ 『寛政重修諸家譜』による集計結果。
^ 所理喜夫「元禄期幕政における『元禄検地』と『元禄地方直し』の意義」、大舘右喜「元禄期幕臣団の研究」、深井雅海「元禄期旗本知行割替の一考察」。
^ この中で、3000石以上の旗本は57人。
^ 大田南畝編『竹橋余筆別集』。
^ 例:400石の土地を、検地によって600石に石高を上げ、それを蔵米600俵取の旗本に知行地として与えることで実質200俵分の削減となる。
^ 新井白石『折たく柴の記』。
^ 『武野燭談(ぶやしょくだん)』。
^ 「江戸時代前期の幕領石高・年貢量に関する新史料」。
参考文献
『綱吉と吉宗』 深井雅海著 吉川弘文館 ISBN 978-4-642-06431-6
『勘定奉行荻原重秀の生涯 新井白石が嫉妬した天才経済官僚』 村井淳志著 集英社新書 ISBN 978-4-08-720385-1
『国史大辞典』第5巻 吉川弘文館 ISBN 4-642-00505-6
『国史大辞典』第6巻 吉川弘文館 ISBN 4-642-00506-4
.mw-parser-output .asbox{position:relative;overflow:hidden}.mw-parser-output .asbox table{background:transparent}.mw-parser-output .asbox p{margin:0}.mw-parser-output .asbox p+p{margin-top:0.25em}.mw-parser-output .asbox{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox-note{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox .navbar{position:absolute;top:-0.90em;right:1em;display:none}
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正
などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。