元禄丁銀
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元禄豆板銀(げんろくまめいたぎん)は元禄丁銀と同品位の豆板銀で、「元」字を中心に抱える大黒像または「常是」文字、および「寳」文字の周囲に小さい「元」字が廻り配列された極印のもの「廻り元」を基本とし、また「元」字が集合した「群元」、大文字の「元」字極印である「大字元」などが存在する[31]
元禄銀の品位

規定品位は銀64%(二割九分六厘引ケ)[32]、銅36%である[33]

元禄銀の規定品位

元禄丁銀と同品位、すなわち64%の銀地金は1.1×0.64=0.704であるから、銀座で0.704倍の量目の慶長丁銀すなわち0.5632倍の純銀量をもって買い取られる品位であるため、これを「二割九分六厘引き」の地金と呼ぶ。この純銀量に換算して12%分が銀座の貨幣鋳造手数料にあたる。

明治時代造幣局により江戸時代の貨幣の分析が行われた。古賀による元禄銀の分析値は以下の通りである[34]

:0.14%

:64.60%

雑:35.26%

雑分はほとんどがであるが、少量のなどを含む。
元禄銀の鋳造量

『吹塵録』、『月堂見聞集』伴に丁銀および豆板銀の合計で405,850余(約1,514トン)としている[23]

公儀灰吹銀および回収された旧銀から丁銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は元禄銀では鋳造高の4%に引き上げられ、また吹替えにより幕府が得た出目(改鋳利益)は銀60,207貫余であった[16][35][36]。元禄金の出目と合わせて500万両余が幕府に入ったが、その後、元禄16年11月23日(1703年12月31日)の元禄地震・火事などの災害により利益は消尽した『折たく柴の記[37][38]
脚注
注釈^ 正保5年(1648年)より宝永5年(1708年)までは374,209貫、慶長6年(1601年)から正保4年(1647年)までは詳細な史料に欠くが、新井白石は748,478貫と推定している(『本朝寳貨通用事略』 1708年)。
^ 慶長銀の海外流出の考慮は必要。

出典^ 青山(1982), p116-118, p120.
^ 小葉田(1958), p133-137.
^ 田谷(1963), p65-77.
^ 滝沢(1996), p194-195.
^ 草間(1815), 『本朝寳貨通用事略』p1113-1116.
^ 滝沢(1996), p195-196.
^ 田谷(1963), p158-159.
^ 小葉田(1958), p140-141.
^ 田谷(1963), p176-179.
^ 田谷(1963), p147-148.
^ 草間(1815), p271-272.
^ 田谷(1963), p171-176.
^ 郡司(1972), p67.
^ 郡司(1972), p69.
^ 田谷(1963), p168, p176.
^ a b 瀧澤・西脇(1999), p268-269.
^ 三上(1996), p170-185.
^ 久光(1976), p101-106.
^ 滝沢(1996), p199.
^ 久光(1976), p104-106.
^ 小葉田(1958), p143-144.
^ 田谷(1963), p176-182.
^ a b 小葉田(1958), p163-165.
^ 田谷(1963), p174-176.
^ 貨幣商組合(1998), p76.


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