元王朝
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元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土モンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジア北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。

正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤトボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。
定義と名称

伝統的に「中国を征服したモンゴル帝国が南北に分裂した内紛を経て、正統な中華帝国になった国」とされていたが、「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」とするものなど様々な意見がある[注釈 1]

中国王朝としての元は崩壊(907年)以来の中国統一王朝であり、大都(現在の北京)から中国とその冊封国やモンゴル帝国全体を支配したが、1368年 - 1644年)に追われて北元になってからはモンゴル高原まで支配領域を縮小した。

中国の歴史には複数の征服王朝(など)があったが、元は政治制度・民族運営において中国漢人の伝統体制に同化されず、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特徴を保ったまま統治し続けたのが特徴的であった。一方、後述するように行政制度や経済運営では南宋の仕組みをほぼそのまま継承した。
概要

元は、1260年チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (、ローマ字表記:Dai-ön Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元」と称した[1]。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことである。国号である「大元」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられるが[注釈 2][5]、中国王朝史においてなど王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「元」と略称される。たとえば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・カンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い[5]

クビライは兄弟のアリクブケと帝位を争って帝国が南北に分裂した内戦に至り、これを武力によって打倒し単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになった[6]。特に、大元の国号が採用された前後に中央アジアオゴデイ家カイドゥがクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、『集史』をはじめペルシア語の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」(mamlakat-i Q??d?'?)と呼ばれたような自立した勢力を成した[7]。帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣したが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続いた。この混乱は西方のジョチ・ウルスフレグ家のイルハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、クビライの死後1301年にカイドゥが戦死するまで続いた。かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのである。こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となった。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるクビライ家の世襲領(ウルス)となったのである[8]

一方中国からの視点で見たとき、北宋以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、契丹)やの統治を受けた北中国と、南宋の統治を受けてきた南中国が統合された。チンギス・カン時代に金を征服して華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などを接収、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地では捕獲した奴隷を使って屯田を行った。また大元時代に入る前後に獲得された雲南では、農耕地や鉱山の開発が行われている。首都への物資の回漕に海運を用い始めた事は、民の重い負担を軽減した良法として評価される。元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国ケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンマー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した[9]

モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われた。モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業に資金を投入した。大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が継続し、それらに基づいた類書などが大量に出版された[10]。南宋末期から大元朝初期の『事林広記』や大元朝末期『南村輟耕録』などがこれにあたる。朱子学の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになった。鎌倉時代後期に大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧一山一寧もこれらの学統に属する[11]

14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し、大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われた(北元)。明朝の始祖洪武帝朱元璋)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることが象徴するように影響を受けていたことが近年指摘されている[11]
歴史

クビライ登位以前についてはモンゴル帝国を参照。
モンゴル帝国の再編

中国の歴史中国歴史
先史時代(中国語版)
中石器時代(中国語版)
新石器時代


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