元弘の乱(げんこうのらん)は、鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。ただし、元弘3年/正慶2年(1333年)5?6月中のどの出来事をもって終期とするかは諸説ある(→始期・終期)。 後醍醐天皇が倒幕を目指した理由や時期については諸説あって一定しないが、どの説を採用するにしても、元徳2年(1330年)末には具体的な倒幕計画を練っていたとされる。ところが、翌3年4月29日(1331年6月5日)に、後醍醐側近「後の三房」の一人吉田定房が六波羅探題へ計画を密告して、鎌倉幕府もこれを知るところになり、長崎高貞ら追討使が派遣された。関係各所の取り調べが進む中、後醍醐天皇は8月9日(西暦9月11日)に「元弘」への改元を詔し(幕府・持明院統は認めず)、さらに同月後半に京都を脱出して、一品中務卿の尊良親王と元・天台座主の尊雲法親王(後の護良親王)の二皇子と共に笠置山の戦いを起こした。武将楠木正成、桜山茲俊もこれに呼応して、正成は下赤坂城の戦いを開始、茲俊は備後の地吉備津宮で挙兵した。しかし、後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、尊雲(護良)と正成は逃げ延び、茲俊は吉備津宮に火をかけ自害して果てた。後醍醐天皇は退位を強制され、後醍醐の大覚寺統と対立する持明院統の皇統(両統迭立)から光厳天皇が即位し、後醍醐天皇は隠岐島へ、尊良親王は土佐国(高知県)に流され、腹心日野資朝は処刑された。元弘2年/元徳4年(1332年)4月10日、幕府は関係者の処分を終え、事態の終結を公式に宣言した。ここまでを特に元弘の変(げんこうのへん)と呼び、「元弘の変」は「元弘の乱」に含まれる一事件であるとする場合が多いが、両語を区別せず「元弘の変」を「元弘の乱」の同義語として扱う場合もある(→名称)。元弘2年/元徳4年4月28日 (1332年5月23日)、幕府・持明院統側では「正慶」へ改元となった。 ところが同年末楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵し、さらに翌元弘3年/正慶2年(1333年)には後醍醐天皇と尊良親王が流刑地を脱出した。楠木党の籠城戦上赤坂城の戦い・千早城の戦いが長引くことで幕府御家人の厭戦感情が増し、倒幕を促す後醍醐の綸旨(天皇の命令文)と護良の令旨(皇族の命令文)が全国に出回ったこと等により、戦況は徐々に後醍醐勢力が盛り返してきた。ここに、北条得宗家と代々縁戚関係を結んできた武家の名門足利氏の当主である高氏(後の尊氏)が幕府から離反したことが大きな転機となって、鎌倉からの遠征軍と京の六波羅探題が壊滅。さらに、関東では御家人新田義貞らが倒幕に応じ、5月22日(西暦7月4日)、東勝寺合戦で、得宗の北条高時と内管領の長崎高資を中心とする幕府・得宗家の本体を滅ぼした。残る九州では尊良親王や菊池武時らが戦っていたが(武時本人は3月中に戦死)、同月25日(西暦7月7日)に鎮西探題を攻略した。勝利を完全にした後醍醐天皇は、同25日に光厳天皇を廃位して元号を「元弘」に一統すると、6月5日(西暦7月17日)に京都へ凱旋し建武の新政を開始した。 鎌倉時代後期、幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた(得宗専制)。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって生活が困窮し、没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では幕府や荘園領主に反抗する悪党の活動が活発化し、次第に支持を失っていった。 朝廷では13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両皇統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。 文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位した。後醍醐天皇は父の後宇多天皇の政治路線を継承し、朝廷への中央集権化を進めた。ところが、正中元年(1324年)、幕府打倒を計画したという嫌疑をかけられ、六波羅探題によって捕縛された(正中の変)。幕府の公式発表では、天皇は冤罪とされて罪には問われなかったが、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。 『太平記』では、後醍醐天皇への無罪判決は、幕府の弱腰姿勢の結果であり、実際には天皇は執念深く倒幕計画を練っていたと物語られており、歴史学としてもこれに近い見方をするのが通説的見解である。 伝統的見解を支持する森茂暁によれば、後醍醐の倒幕傾向がさらに強まり、新段階に入ったのは、1326年ではないかという[1]。正中3年3月20日(1326年4月23日)に大覚寺統の皇太子邦良親王が薨去して、持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)が立坊され、さらに嘉暦への改元を挟み、関東申次を代々務める西園寺家の当主の地位が、嘉暦元年11月18日(1326年12月13日)に西園寺実衡が薨去したことで、持明院統寄りである西園寺公宗に交代するなど、後醍醐にとって不利な事件が立て続けに起こったことが論拠として挙げられる[1]。 しかし、2007年に河内祥輔によって、後醍醐天皇はこの時点ではまだ幕府との協調路線を望んでおり、天皇は本当に冤罪だったとする新説が唱えられ[2]、亀田俊和が大筋での積極的支持を表明し[3]、呉座勇一も蓋然性は高いと見ている[4]。
概要
背景
正中の変まで
元弘の倒幕計画の発端
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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