元寇
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^ 文永・弘安の役に関する日本語によるほとんどの著作・論文では「ヒンドゥ(忻都)」としているが、『高麗史』『高麗史節要』などの高麗側の資料によると、文永の役の時の総司令官は、ヒンドゥ(忻都)ではなく「クドゥン(忽敦)」という人物であった。『元朝秘史』および『華夷訳語』「韃靼館訳語」雑文などによると、「忻都」という単語は、『元朝秘史』巻11・261段に「忻都思(Hindus)」と見え、「インド」を意味するペルシア語の“Hind”ないし“Hind?”の漢字転写、もしくはそのモンゴル語音化したものの漢字転写。「忽敦」は『元史』にも10度ほど現れる人名だが、『元史語解』によると「忽敦」は「火敦」、つまりモンゴル語で「星」を意味するhotun?udunの漢字音写の別表記の一つであるという。『元史』の至元十一年三月庚寅の条に「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」とあり、ヒンドゥ(忻都)が洪茶丘らとともに派遣されたはずだが、『高麗史』の元宗十五年八月己酉の条に、「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦来。令加発京軍四百五十八人。」とあって、高麗に侵攻軍全体の都元帥として着任して来たのは「クドゥン(忽敦)」であった。『元史』洪茶丘伝に「(至元十一年)八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島。」とあり、下記にもある『高麗史』金方慶伝や『高麗史節要』での博多上陸後の侵攻軍内の軍議で金方慶とやり取りしている人物も「クドゥン(忽敦)」と書かれている。『高麗史』『高麗史節要』では八月己酉の高麗到着から、侵攻から高麗へ帰還し、翌忠烈王元年正月丙子(1275年2月1日)に北還するまで、都元帥は一貫して「クドゥン(忽敦)」であり、「ヒンドゥ(忻都)」とは書かれていない。上述のように、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は同じ語彙の別転写ではなく、全く別の単語である。そのため、「ヒンドゥ(忻都)」と「クドゥン(忽敦)」は別の名前を持つ同一人物か、あるいは全くの別人だと考えられるが、この問題に関しては十分な論考が行われていない。
^ a b c 大元朝に人質に出された高麗国王・高宗の子息・王?の子。『元史』巻一百六十六 列傳第五十三 王?・附阿剌帖木兒「十一年、進昭勇大將軍、従都元帥忽都征日本國、預有戰功。十五年、加鎭國上將軍、安撫使、高麗軍民總管、尋陞輔國上將軍、東征左副都元帥。十八年、復征日本、遇風涛、遂没於軍。」
^ a b 東越允徹『蒙山和尚行道記』「偶文永之歳、元兵偵我西」鄙、有万戸将軍、降于本朝、蓋儒而将者、」(榎本渉『南宋・元代日中渡航僧伝記集成 附 江戸時代における僧伝集積過程の研究』勉誠出版 2013年3月30日 431頁)
^ 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年十一月癸巳の条「召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。」
^ a b 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年十月乙巳(三日)の条「冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任ト爲副使、金?爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。」
^ 『蒙古襲来絵詞』絵二の墨書「太宰少貳/三郎左衛門尉景資二十九/むま具足にせゑ/其勢五百余騎」
^ 『蒙古襲来絵詞』絵三の墨書「白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく」
^ 『蒙古襲来絵詞』詞三「そのせい(勢)百よき(余騎)はかりとみへて、(中略)ひこ(肥後)のくに(国)きくち(菊池)二郎たけふさ(武房)と申すものに候、」 赤坂の戦い直後の兵力。赤坂の戦い以前の兵力は不詳。
^ a b 『元史』巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨「十年(十一年)、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」
^ a b 『歴代皇紀』「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」(近藤瓶城編『改定史籍集覧 第18冊(新加通記類 第1)』臨川書店 1984年2月 275頁)
^ a b 『高麗史』金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女眞軍、女眞後期、乃發船。」
^ a b 『元史』巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年三月庚寅の条「庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本。」
^ 『元文類』巻四十一 経世大典序録 征伐 日本「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之、」
^ 歴史学者の池内宏は大元朝から日本へ派遣された軍勢は20,000である、という見解を示している。根拠は高麗に駐兵していたヒンドゥ(忻都)率いる兵4,500と洪茶丘率いる兵500の他に「元征東兵萬五千人來」と大元朝から新たに15,000の日本侵攻軍の増派されたことが確認できるため、ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘ら率いる兵5,000に15,000を足して20,000としている。そして、『元史』洪茶丘伝に「與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、」とあり、20,000という数字が合致していることを見解の補強としている(池内宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 125頁)。他方、歴史学者の大葉昇一は『元史』至元十一年三月庚寅の条「合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、」の15,000とは高麗に駐兵していた軍と新たに大元朝から派遣された軍勢を含んだ総計が15,000であって大元朝の日本侵攻軍は『元史』至元十一年三月庚寅の条の15,000で正しい、という見解を示している。(大葉昇一『軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成--耽羅(濟州島)征討から元寇へ--』第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年)。『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年二月甲子(十七日)の条「又正月十九日奉省旨云、忻都官人所管軍四千五百人、至金州行糧一千五百七十碩、又屯住處糧料及造船監督洪總管軍五百人行糧八十五碩、亦令應副、」、同元宗十五年(五月)己丑(十四日)の条「己丑、元征東兵萬五千人來。」
^ 高麗軍の兵力は『元史』や『高麗史』の中でも一定していない。『元史』や『高麗史』に記載された高麗軍の兵力を挙げると、5,300(『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年己酉の条)、5,458(『高麗史』巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌の条及び同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉の条)、5,600(『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國)、8,000(『高麗史』巻一百四 列伝十七 金方慶、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一十月乙巳の条)となっている。なお、歴史学者の池内宏は、『元史』高麗伝の高麗軍数5,600人に後に加えられた458人の高麗兵を足して高麗軍総数が約6,000であるという見解を示している(池内 宏『元寇の新研究』東洋文庫 1931年 126頁)。『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「小國一千軍鎭戌耽羅者、在昔東征時、係本國五千三百軍額。」、同巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌(九日)の条「三月丙戌、元遣經略司王總管來、命發軍五千、助征日本。」、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉(六日)の条「八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍(高麗軍)四百五十八人。」、『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國「(至元十一)三月、遣木速塔八、撒本合、持詔使高麗、簽軍五千六百人、助征日本。」
^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(十一月)己酉(十一日)の条「見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、總計一萬人(実数九千五百人)、兵船總九百艘、(大船)三百艘、合用梢工水手一萬八千、竊念、小國戸口、自來凋弊、往歳東征之時、大船一百二十六艘梢工水手、猶爲未敷、況今三百艘、何以盡數應副、以此至於農民、徴發丁壯、凡一萬五千人、其不敷水手三千人、於何調發、有東寧府所管諸城及東京路沿海州縣、多有梢工水手、伏望、發遣三千人補乏、」
^ a b 『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「十一年三月、命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。」 各艦船の用途については山形欣哉・石井謙治『歴史群像シリーズ64―北条時宗―蒙古襲来と若き執権の果断--元寇軍船』(学研出版 2000年 36?39頁)を参考。
^ a b c d e 『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事「又或記云十一歟月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、」(『日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1』日蓮宗宗学全書刊行会 1922年 21頁)
^ a b c d e f g 『金綱集』第十二 雑録 異賊襲我国事「九十代、今上御宇(亀山天皇)、筑前国大博多箱崎ニ来事、文永五年正月一日、新左衛門尉経資請取大田次郎左衛門 自蒙古国状、筑前国大宰府ニ、彼状豊前之新左衛門尉経資請取、大田次郎左衛門長盛并伊勢法橋二人ヲ以被進六波羅彼使者ヲ以被進関東、自鎌倉佐々木(「前」脱カ)対馬守氏信・伊勢入道(二階堂行綱)行願二人ヲ以被進公家、於仙洞菅宰相長成卿被召被読条状也、同十一年十月五日、蒙古人乗数百艘之船対馬仁来、同六日辰剋守護代宗馬(メノ)允資国等防キ戦之、(「蒙」脱カ)古人雖打取資国子息等悉打死畢、同十四日蒙古人壱岐国仁押寄テ守護代平内左衛門尉影高(景隆)等構城廓雖合戦ト、蒙古人乱入之間影高等自害畢、同十九日、蒙古人筑前国博多・箱崎・今津・佐原賊来、同廿日辰尅少郷入道覚恵(武藤資能)・子息三郎左衛門尉影(景)資・大友出羽守頼泰并以読(ママ)次郎左衛門尉重秀・難波次郎(在助)・菊池次郎(康成)、九国御家人等馳集令合戦之間、両方死輩不知其数、及酉尅九国軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出来、白〔弓偏ニ牟〕(鉾カ)梅○〔弓偏ニ牟〕暗空ニアリ、仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三遭Z郎・四劉保兒也、同廿一日、住吉第三神殿ヨリ鏑ノ聲シテ西ヲ指シテ行、有人夢見、北野天神御歌神風仁蒙古賀船和散波多(亭カ)々底之花久津登成曾宇礼志幾 自他国国王十一代之間○我朝ニ賊来事十八度此中蒙古人十度来也、建治元年九月六日酉尅前後生取九人被切之也、文応元年庚申聖人(日蓮)造立正安国論進覧西明寺(北条時頼)殿、」(坂井法曄 2003, p. 27)
^ 『八幡愚童訓』「宗右馬允戦(たたかう)ト云ヘ共、辰ノ終ニ打レヌ。同子息宗馬次郎、養子弥次郎、并右馬允、同八郎、親類刑部丞郎、郎等三郎右馬允、兵衛次郎、庄ノ太郎入道、源八、在庁左近ノ右馬允、流人肥後國御家人口井(タイノ)藤三、源三郎、以上十二人、同時ニ打死ス」(これらの戦死者名については諸本で若干異同がある)萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183。
^ 『八幡愚童訓』「同十四日申時尅ニ、壱岐嶋ニ西面ニ蒙古人ノ船着ク。(中略)守護代平内左衛門尉経高(景隆)并御家人百余騎、庄三郎ガ城ノ前ニテ矢合ス。(中略)異敵ハ大勢也。可(ベウモ)叶無カリケレバ、城ノ内ヘ引退テ雖防戦、同十五日終(ついに)、被責落、城中ニテ自害ス」萩原龍夫 校訂「八幡愚童訓 甲」『寺社縁起 日本思想大系20』(桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年)p.183-184。
^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之。
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