元号
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企業の決算有価証券報告書など社外向け資料・プレスリリース鉄道などの乗車券金融機関預金通帳なども、以前は和暦表記(元号の年部分表記)が主流であったが、2019年の改元[注 10] を前に、西暦表記に改める動きもみられた[31][32][33]
切手における元号

日本で発行されている切手には元号および西暦で発行年が記載されている。ただし歴史的にみれば大きな変遷がある。なお、記念切手には万国郵便連合(UPU)によって原則として西暦で発行年を入れるように規定されている。

日本の切手で発行年が入るものに記念切手があるが、記念切手の印面に第二次世界大戦までは元号が入る場合と全くない場合が混在していた。ただし国立公園切手の小型シートには皇紀(西暦)とアラビア数字で記入されたものがある。戦後、発行された記念切手には「昭和二十二年」といったように漢数字で表記されていたが、経緯は不明であるが1949年(昭和24年)頃から西暦のみで表記されるようになった。ただし、年賀切手の中に一部例外があるほか、皇室の 慶事 に関する記念切手は元号のみの表示の場合があった。また年賀小型シートなどには「お年玉郵便切手昭和三十一年」といった元号による表記があるほか、切手シートの余白には元号で発行年月日が入っていたが、1960年(昭和35年)頃からなくなった。

1979年(昭和54年)に施行された元号法による政策のためか、1979年(昭和54年)7月14日に発行された「検疫制度100年記念切手」から西暦と元号で併記されるようになった。ただし、毎年発行される国際文通週間記念切手については西暦しか表記されていない。また切手シートの余白に1995年(平成7年)頃から「H10.7.23」というローマ字による発行年月日が、さらに2000年(平成12年)からは「平成12年7月23日」という元号表記が入るようになった。なお、令和に改元された2019年(令和元年)5月から9月までは切手面・余白の発行年月日ともに西暦のみの表記で、令和の使用は10月からとなっている。

なお、世界的に見ると切手に記入される年号としては西暦のほかには仏滅紀元イスラム暦北朝鮮主体年号中華民国台湾)の民国紀元などがある

1952年(昭和27年)に発行された皇太子明仁親王(当時、現在の上皇)の立太子禮記念切手。元号のみの表記である。

1957年(昭和32年)に発行された製鉄100年記念切手。西暦のみの表記である。

1958年(昭和33年)お年玉年賀切手の表記のある小型シート。切手には西暦のみの表記であるが、小型シートの余白は元号のみの表記である。

1995年(平成7年)に発行された伊能忠敬肖像画の切手。西暦と元号が併記されている。

元号と商標

日本においては、「元号としてのみ認識される商標(例えば「平成」)は識別力がない」とされ、元号を商標登録に出願することができない。また、元号と普通名称等の識別力のない文字(例えば饅頭についての「まんじゅう」)とを組み合わせた商標(例えば「平成まんじゅう」)なども同様で、商標登録に出願できないが、商号(企業名・団体名・屋号など)での使用は制限されていない。

ただし、その商標を使用し続けたことによって、識別力と知名度が生じた場合(例えば「平成まんじゅう」という商標を長年使い続けた結果、だれもが「平成まんじゅう」といえばその饅頭のことだとわかるようになった場合)には商標登録される場合もある[34] としており、実際に食品会社の「明治[35]」や「大正製薬[36]」は商標登録され、商号としても存続している。

特許庁では、以前から旧・元号も現行の元号と同様に取り扱われるとの解釈であったが、「商標登録できないのは現・元号の「平成」に限られ、「大化」から「昭和」までの旧・元号は商標登録でき、「令和」への改元後には「平成」も商標登録できる、と解釈される可能性」があり、実際にそのような報道もなされていた[37][38]

そのため、特許庁では2019年(平成31年)1月30日に審査基準を改訂し、「現元号(平成)以外の元号(昭和までの元号や、改元前に公表された新・元号)も登録を認めない」と明確化した[34][39][40]
元号使用のメリット・デメリット

元号使用のメリットとしては、以下の様な物がある。

明治維新」「大正デモクラシー」「昭和恐慌」「昭和モダン」など歴史的な事象を表現する場合には、名詞である元号の方が区別しやすい。

年齢詐称などの確認(自分の生まれ年の元号は覚えている事が多いため、本人確認の際に有効となる面がある)。

一方、デメリットとしては以下の様な物があり、元号そのものに否定的な姿勢を示す者もいる。

西暦には終わりがなく、紀年数は常に変わらないが、元号には終わりがあり、いつかは変更(改元)される。明治維新前は大事件や政権を担う征夷大将軍の都合など、明確な基準がないまま幾度となく変更されていたが、明治維新後は新天皇の即位(天皇の崩御または生前退位による次期皇位継承者への譲位)によって変更されている。このため、例えば「平成40年」(=西暦2028年)のような遠い未来の紀年を正確に表現できない[注 11]

日本独自の紀年であり、国外では通用しないため、外国人には理解されにくい。日本国内でも、元号ではなく西暦で時期を覚えている人にも同様の問題が生じ、同時代に生きていないと予備知識が必要となる[46]

特定の地域で公的に用いられている紀年法として、中華民国(台湾)の「民国紀元」や、北朝鮮の「主体年号」などがあり、これらも同様に、日本を含む諸外国では通用しない。


西暦では1年に対する紀年数が常に1対1の関係にあるのに対し、日本の元号制度では「立年改元」ではなく「即日改元」を採用しているため、1つの西暦年に対して複数の元号(1860年 = 安政7年/万延元年。1912年 = 明治45年/大正元年、1926年 = 大正15年/昭和元年、1989年 = 昭和64年/平成元年、2019年 = 平成31年/令和元年)が混在する例や、翌月が新しい元号の「元年」ではなく「2年」になる例が発生する。

過去の日本では、749年に、天平天平感宝天平勝宝と、3つの元号が混在した例がある。また、大正15年(西暦1926年)12月10日の1ヶ月後の日付は、昭和2年(西暦1927年)1月10日である。明治以後の現在は一世一元の改元であり、年に3代の天皇が即位する可能性は極めて低いが、当該事項のように複数の元号を充てる必要が発生した場合、大きな混乱が予想される。これらは特に、コンピュータで年を扱う際の事務処理や変換のアルゴリズムが煩雑になる(「昭和100年問題」のような年問題も発生させている。後述)。


元号が異なる2つの年の前後関係を判別するには、元号の順序を記憶していなければならない。また、元号が異なる2つの年の間隔を計算するには、いったん西暦に変換しなければならないため、年の変換と計算作業が非常に煩雑になる(例:明治30年から平成10年まで何年離れているか、というような年数を数えにくい)。特に「和暦表記のみ」と「西暦表記のみ」が混在し、年号の表記が統一できていない場合はさらに混乱する(例:昭和58年から1996年まで何年離れているか、など)。

会計年度の区切り[注 12] が改元の区切りと一致せず、改元後年度の終了日までの呼称は旧元号による(例えば平成元年3月31日は昭和63年度に属する)ため、混乱を生じやすい。ただし、2019年の令和への改元時の2019年度(2019年4月1日から2020年(令和2年)3月31日まで)の国の予算は改元日以後、「令和元年度予算」として扱うものとされたため、平成31年4月1日から4月30日は新元号の年度である「令和元年度」に属することとなった[47]


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