二十四史
二十四史
司馬遷『史記』
班固『漢書』
范曄『後漢書』
陳寿『三国志』
房玄齢等『晋書』
沈約『宋書』
蕭子顕『南斉書』
姚思廉『梁書』
姚思廉『陳書』
魏収『魏書』
李百薬『北斉書』
令狐徳?等『周書』
魏徴・長孫無忌等『隋書』
李延寿『南史』
李延寿『北史』
劉?等『旧唐書』
欧陽脩・宋祁『新唐書』
薛居正等『旧五代史』
欧陽脩『新五代史』
脱脱等『宋史』
脱脱等『遼史』
脱脱等『金史』
宋濂等『元史
『元史』(げんし)は、元(大元ウルス)について書かれた歴史書(正史)。
清の乾隆帝が定めた二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はチンギス・カンがイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した1206年から、順帝トゴン・テムルが大都を放棄した1367年まで。
拙速な編纂により誤謬・重複・脱漏が多いことが早くより知られており、考証学者の銭大マが「古今、史成るの速やかなる、未だ元史に如く者あらず。而して文の陋劣もまた、元史に如く者なし」と評するなど、清代には既に二十四史の中で最も完成度が低いとの評価が定まっていた。そのため多くの歴史家によって『元史』改訂の試みがなされており、その集大成が20世紀に編纂された『新元史』であった。 前年に皇帝に即位後、大元ウルスを華北から追い落とした洪武帝は洪武2年(1368年)2月1日に詔を出すと、宋濂を主幹として『元史』の編纂を始めた[1][2]。半年後の8月に一旦に最初の編纂が終わったが、元朝最後の皇帝順帝の本紀がないといった問題点が指摘され、洪武3年2月に編纂が再開し[3]、8月に完成を見た[4]。編纂に携わった宋濂・高啓らはいずれも当代一流の文人であったが、『元史』には多くの問題点があった。その原因として第一に、明が成立して即座に編纂が行われたことが挙げられる。普通、正史の編纂には恣意的なものが混じらないように、100年程度の間隔をおいてから行うのが良いとされる。第二に、開始から1年半というごく短時間にて完成したことが挙げられる。その次の正史である『明史』が94年という、歴代でも最長の時間をかけたのとは好対照である。 洪武帝がここまで編纂を急いだのは、漢族王朝を復興したという立場から、夷狄の王朝である元を一刻も早く過去の存在となすと、自らの正当性を誇示したかったゆえと推察される。 『進元史表』には「上は太祖(チンギス・カン)より下は寧宗(リンチンバル・カアン)まで、十三朝実録の文に拠り百巻余りの粗完の史を成す」とあり、『元史』の雛形が「十三朝実録」すなわち太祖・太宗・定宗・憲宗・世祖・成宗・武宗・仁宗・英宗・泰定帝・明宗・文宗・寧宗ら元朝の歴代実録を原史料に編纂されたものであったとわかる。 元朝の実録は世祖クビライの治世に編纂が始まったがクビライの存命中には完成せず、成宗テムルの治世に始めて『世祖実録』並びに『太祖実録』・『太宗実録』・『定宗実録』・『睿宗実録』・『憲宗実録』が完成した[5][6]。以後、元朝の歴代皇帝は前代の皇帝の実録を編纂するのが慣例となり、明朝の時代には「十三朝実録」が残されるに至った。 この『元朝実録』は散逸して現存していないが、『元史』各本紀が各『実録』の性格をそのまま引き継いでいるであろうことは多くの研究者が指摘している。すなわち、各朝『実録』は今上帝が先帝の事蹟を纏めて編纂させるものであるため、基本的に「現政権にとって都合の悪い事実は記されない」という共通点を有しており、『元史』の各本紀もこの特徴を継承している。1例を挙げると、英宗政権によって編纂された『仁宗実録』を元とする「仁宗本紀」は、「仁宗が息子の英宗を即位させるため、武宗の諸子(後の明宗・文宗)を冷遇・排除した」事実を徹底的に排除して編纂されているが、逆に文宗政権によって編纂された英宗から明宗の『実録』を元にする本紀はその間の経緯を包み隠さず記している[7]。
編纂過程
原史料
本紀(『元朝実録』他)