元史
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1例を挙げると、英宗政権によって編纂された『仁宗実録』を元とする「仁宗本紀」は、「仁宗が息子の英宗を即位させるため、武宗の諸子(後の明宗・文宗)を冷遇・排除した」事実を徹底的に排除して編纂されているが、逆に文宗政権によって編纂された英宗から明宗の『実録』を元にする本紀はその間の経緯を包み隠さず記している[7]

また、当然のことながら最後の皇帝ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)には『実録』が存在せず、そのため第一次編纂の後に編纂官が各地で採録・収集した資料を元に編纂されている。このような編纂経緯のため「順帝本紀」は他の本紀に比べて記述に一貫性がなく、他の書物と比較検討なしに記事間の脈絡を見出すことはほとんど不可能と評されている[8]
志/表(『経世大典』他)

『元史』巻97志47食貨志5には「(元史の)『食貨』の前誌は『経世大典』に拠って19の項目の項目を載せており、天暦以前については記載が詳細である……」とあるように[9]、『元史』の志類の大部分は天暦2年のジャヤガトゥ・カアン(文宗トク・テムル)即位記念に出版された『経世大典』を主要な史料源として編纂されている。

『経世大典』も『元朝実録』と同様に散逸して現存していないが、その一部が『永楽大典』中に「站赤」や「漕運」といった項目で記録されている。『永楽大典』所収の「站赤」と『元史』巻101兵志4「站赤」を比較すると、後者は前者の文章を一部の語句を代えるのみでそのまま引用しているが、その分量は前者の30分の1程度に過ぎない。そのため、『元史』の志とは、『経世大典』の記載を数十分の一程度に抄録したものであると考えられている。
評価

17世紀以降、清朝統治下の中国では考証学が盛んとなり、『元史』に対しても顧炎武趙翼銭大マ・邵遠平・魏源ら名だたる考証学者が批評を行った。
評価点
列伝の配置

清初の考証学者銭大マが最初に指摘した点であり、『元史』の列伝が蒙古人・色目人・漢人の順に編纂されていることを評価するもの。モンゴル帝国及び大元ウルスは前代に類を見ない世界帝国であり、非常に多種多様な地域出身の人物が臣下として仕えていた。その点を踏まえ、『元史』の列伝では第5巻から第32巻までが蒙古人・色目人、第33巻から第73巻までを漢人・南人にあてている。なお、列伝が「后妃列伝-睿宗・裕宗・顕宗・順宗伝」から始まる構成であることを評価する意見も存在する[10]
直訳体漢文の採録

清代の考証学者たちからは批判点として認識されていたが、近年のモンゴル史研究者からはむしろ評価点として見られるようになったもの。13世紀から14世紀にかけてモンゴル帝国では「モンゴル語を世界共通語とする」という目標の下、征服した諸民族の言語の翻訳環境を整備していた。その過程で中国方面に導入されたのが「モンゴル語直訳体漢文」で、特にクビライの治世以後に文章の定型化が進められたものを「大元ウルス書式」とも呼称する。

「モンゴル語直訳体」はモンゴル語文章をモンゴル語特有の語句と語順を保ったたまま漢文に翻訳した特殊な文章で、モンゴル語と漢語の双方に通じている者ならば元となるモンゴル語文章をある程度復元可能という特徴を持つ。反面、一般的な漢文の知識では全く読めない文章となっており、伝統的な漢文教養を有する考証学者たちはこのような文章を「文は鄙俚を極む」と蔑んだ。逆に、近年のモンゴル史学者にとって直訳体は当時のモンゴル語原文を類推可能な貴重な資料であり、研究対象として注目されている。

『元史』に記載される直訳体で最も著名な例は巻29泰定帝本紀の「即位の詔」であり、実際に杉山正明はこの文章を考察し、大部分のモンゴル語原文を明らかにしている。これ以外にも、各本紀が実録の性格を引き継いでいる点など、原史料を文体を統一せずにそのまま引き写している点がかえって史料価値の高さを生んでいるとされる点がしばしばある[11]
批判点
列伝の重複

同一人物(主にモンゴル人)について誤って2つの列伝を立ててしまうことで、『元史』に対する批判の中でも最もよく知られるもの。このような誤りが生じるのは、非漢民族の人名を漢字転写する際に多数の表記方法があるのに対し、編纂官がこれを同一人物と認識できず別人として扱ってしまったためと考えられる。また、同様の理由で『元史』は本紀と列伝で人名表記の統一が全くなされていないため、今なお対応する人名が不明な人物も多い。

一般的には以下の3例が列伝の重複として知られている。

『元史』巻121列伝8の「速不台」と巻122列伝9の「雪不台」(
四狗の一人・スブタイのこと)

『元史』巻131列伝18の「完者都」と巻133列伝20の「完者都抜都」(キプチャク人のオルジェイトゥ・バアトルのこと)

『元史』巻150列伝37の「石抹也先」と巻152列伝39の「石抹阿辛」(キタイ人石抹姓のエセンのこと)

また、以下の2例は同一人物の列伝でこそないものの、親族どうしであるためにほとんど内容が重複していると指摘されている。

『元史』巻121列伝10直脱児伝と巻133列伝20忽剌出伝(忽剌出は直脱児の従子にあたる)

『元史』巻132列伝19杭忽思伝と巻135列伝22阿答赤伝(阿答赤は杭忽思の息子にあたる)

[12]
宗室世系表の不備

清代の考証学ではあまり指摘されてこなかったが、『集史』や『五族譜』といったペルシア語史料との比較検討が可能となった20世紀後半以後に指摘されるようになったもの。『五族譜』などの系譜史料と比較したとき、「宗室世系表」にはあまりにも問題点が多いため、杉山正明は「これに基づいて、大元ウルス治下の諸王統を正確に把握することなど、ほとんど不可能事に近い」とさえ称している[13]

根拠のない系譜の創作ジョチ家、チャガタイ家、フレグ家といった、いわゆる「西方3ハン国」の系図にみられるもので、事実に基づかない系図が創作されている。甚だしいのはジョチ家の系図(朮赤太子位)でバトゥ(抜都)、サルタク(撒里答)、モンケ・テムル(忙哥帖木児)、トダ・モンケ(脱脱蒙哥)、トクタ(脱脱)、ウズベク(月即別)らジョチ・ウルス歴代当主を全て兄弟関係にあるとしている。詰まるところ、これらの系図は本紀や列伝(ジョチ家の場合は巻107朮赤伝)に散見する人名を何の根拠もなく、恣意的につなぎあわせたものに過ぎないと言える。

同一人名の取り違えトクト、テムルといったモンゴル人の間ではありふれた人名でよく見られるもので、同じ名前だが実際には異なる人物を取り違えてしまうもの。以下のような事例が指摘されている。
ジョチ家系図(朮赤太子位)の寧粛王トクト(脱脱)、粛王コンチェク(寛徹)父子:ジョチ家のトクタとチャガタイ系チュベイ王家の人物を取り違えている。

トゥルイ系ソゲドゥ家系図(歳哥都大王位)の荊王トク・テムル(脱脱木児)、荊王イェス・エブゲン(也速不堅)父子:ソゲドゥ家のトク・テムルとオゴデイ系コデン家のトク・テムルを取り違えている。


全く関係のない系図の挿入ある家系図に全く関係のない別の家系図がいり混ざってしまうもの。例えばチンギス・カンの庶子コルゲンの家系図の第5、第6世代は全く関係のない家系図が混ざりこんだものであると考えられている。また、前述した同一人名の別人を取り違えた箇所から別の家系図が挿入されるという事例もある。

内容
本紀

巻目巻題節目
巻1
本紀第1 太祖太祖テムジン/チンギス・カン
巻2本紀第2 太宗 定宗太宗オゴデイ・カアン定宗グユク・カン
巻3本紀第3 憲宗憲宗モンケ・カアン
巻4本紀第4 世祖1世祖クビライ/セチェン・カアン中統元年(1260年) - 中統2年(1261年))
巻5本紀第5 世祖2世祖クビライ/セチェン・カアン(中統3年(1262年) - 至元元年(1264年))
巻6本紀第6 世祖3世祖クビライ/セチェン・カアン(至元2年(1265年) - 至元6年(1269年))
巻7本紀第7 世祖4世祖クビライ/セチェン・カアン(至元7年(1270年) - 至元9年(1272年))
巻8本紀第8 世祖5世祖クビライ/セチェン・カアン(至元10年(1273年) - 至元12年(1275年))
巻9本紀第9 世祖6世祖クビライ/セチェン・カアン(至元13年(1276年) - 至元14年(1277年))
巻10本紀第10 世祖7世祖クビライ/セチェン・カアン(至元15年(1278年) - 至元16年(1279年))
巻11本紀第11 世祖8世祖クビライ/セチェン・カアン(至元17年(1280年) - 至元18年(1281年))
巻12本紀第12 世祖9世祖クビライ/セチェン・カアン(至元19年(1282年) - 至元20年(1283年))
巻13本紀第13 世祖10世祖クビライ/セチェン・カアン(至元21年(1284年) - 至元22年(1285年))
巻14本紀第14 世祖11世祖クビライ/セチェン・カアン(至元23年(1286年) - 至元24年(1287年))
巻15本紀第15 世祖12世祖クビライ/セチェン・カアン(至元25年(1288年) - 至元26年(1289年))
巻16本紀第16 世祖13世祖クビライ/セチェン・カアン(至元27年(1290年) - 至元28年(1291年))
巻17本紀第17 世祖14世祖クビライ/セチェン・カアン(至元29年(1292年) - 至元31年(1294年))
巻18本紀第18 成宗1成宗テムル/オルジェイトゥ・カアン(至元31年(1294年) - 元貞元年(1295年))
巻19本紀第19 成宗2成宗テムル/オルジェイトゥ・カアン(元貞2年(1296年) - 大徳2年(1298年))
巻20本紀第20 成宗3成宗テムル/オルジェイトゥ・カアン(大徳3年(1299年) - 大徳6年(1302年))
巻21本紀第21 成宗4成宗テムル/オルジェイトゥ・カアン(大徳7年(1303年) - 大徳11年(1307年))
巻22本紀第22 武宗1武宗カイシャン/クルク・カアン(大徳11年(1307年) - 至大元年(1308年))
巻23本紀第23 武宗2武宗カイシャン/クルク・カアン(至大2年(1309年) - 至大4年(1311年))
巻24本紀第24 仁宗1仁宗アユルバルワダ/ブヤント・カアン(至大4年(1311年) - 皇慶2年(1313年))
巻25本紀第25 仁宗2仁宗アユルバルワダ/ブヤント・カアン(延祐元年(1314年) - 延祐3年(1316年))
巻26本紀第26 仁宗3仁宗アユルバルワダ/ブヤント・カアン(延祐4年(1317年) - 延祐7年(1320年))


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