『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[2]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。 『日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、瑞歯別天皇(反正天皇)の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや、大阪府松原市上田)をそのまま使っていたことになる。『古事記』によると都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥もしくは大阪府羽曳野市飛鳥。前者の場合、大和の飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇ということになる)。
后妃・皇子女
皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ。稚渟毛二派皇子〈応神天皇皇子〉の女)
第一皇子 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ) 皇太子
第一皇女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)
第二皇子 境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)
第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇)
第二皇女 軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)
第四皇子 八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)
第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇)
第三皇女 但馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)
第四皇女 酒見皇女(さかみのひめみこ)
妃:弟姫(おとひめ、衣通郎姫(そとおりのいらつめ)、皇后の妹)[1]
年譜
仁徳天皇64年?
誕生
反正天皇5年
1月、群臣に天皇として推挙される
即位元年
12月、即位
即位3年
8月新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療
即位4年
9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施
即位5年
7月、允恭地震の直後に葛城玉田宿禰の叛意が露顕、これを誅殺
即位7年
12月、皇后の妹の弟姫(衣通郎姫)が入内、藤原宮に住まわせる
即位8年
2月、衣通郎姫が茅渟宮へ移る
即位9年
茅渟宮へ頻繁に行幸
即位10年
皇后に諌められ、茅渟行幸が稀になる
即位23年
3月、木梨軽皇子を立太子
即位24年
6月、木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女の近親相姦が発覚
即位42年
1月、崩御。宝算は78歳(『古事記』『旧事紀』)、80歳(『愚管抄』『神皇正統記』)、81歳(北野本『日本書紀』)、68歳(『日本書紀』一本)
10月、惠我長野北陵に葬られる
11月、新羅王から弔使が送られる
皇居