スティーヴン・ジェイ・グールドらは、米国において1920年代に成立し1960年に大幅な改正を受けた移民制限が、自然の遺伝子プールから「劣った」人種を排除することを意図した優生学的目標によって動機付けられたものであったと主張している[54]。20世紀初頭、米国とカナダは、南欧と東欧から膨大な量の移民を受け入れるようになった。ロスロップ・スタッダード(英語版)やヘンリー・ラフリン(英語版)[注 12]の様な影響力を持った優生学者たちは、もしこの先移民が制限されないとするならば、国の遺伝子プールを汚染することになる劣等人種が国中に満ち溢れることになる、とする議論を立ち上げた。これらの議論によってカナダと米国は民族間の序列化を行う様々な法の立法化へと向かうことになった。
これらの法律では最上位にアングロ・サクソンとスカンジナビア人が位置付けられ、下に向かって事実上移民から完全に閉め出された日本人と中国人に至る格付けが行われた。
他方、移民制限政策は多量の外国人の流入に対する国の文化的健全さを維持する欲求に動機付けられたものであるとする見解もある[55]。 1926年にはハリー・クランプトン 一般的に優生学の概念に同意しない立場においても優生学的立法は依然として公益性を有すると主張している人々が存在した一例として、米国産児制限協会創立者のマーガレット・サンガーは優生学に基づいて、産児制限(バース・コントロール)運動を展開した[56]。当時優生学は科学的かつ進歩的な思想であり、人間の生命の領域に、産児に関して科学的な知見を応用するものであると多くの人々から理解されていた。第二次世界大戦の強制絶滅収容所以前、優生学がジェノサイドに繋がる恐れがあるとする考え方は真剣には受け取られなかった。 1971年、女性の人工妊娠中絶の権利を認めた『ロー対ウェイド判決』において、優生学はそれを支持する役割を果たした[57]。この事は、反中絶派の批判の論拠の一つとなっている。 1933年、ドイツにおいて、遺伝的かつ矯正不能のアルコール依存症患者、性犯罪者、精神障害者、そして子孫に遺伝する治療不能の疾病に苦しむ患者に対する強制断種を可能とする法律が立法化された。これはナチス政権において議会の承認なしに制定されたものだが、障害者に対する強制不妊措置の導入をやむを得ないと考える者は社民党内部にも相当数いた[58]。ナチス政権に特徴的だったのは下部組織の自律性や決定権を奪い、政府の管理下に置いたことである[59]。遺伝病や重度のアルコール障害に対する不妊手術を裁判所に申請しなかった場合、医療活動の永久停止を含む処罰が科された[59]。ナチス政権下で実施された不妊手術の件数は36万件から40万件にのぼり、他国に比べてかなり多い[59]。 第二次世界大戦が始まった1939年9月に不妊手術は原則として中止され、同時にT4作戦と呼ばれる、精神的または肉体的に「不適格」と判断された人々に対する強制的安楽死政策が開始され、1945年までに少なくとも7万人、多ければ十数万人が死亡した[60]。 ただドイツの優生学者(民族衛生学者)のほとんどは安楽死には反対の立場をとっていた。その理由は、次世代への遺伝子継承を阻止するという優生学の目的のためには断種で十分であり、安楽死には人道的な問題があること、そもそも安楽死の対象となるような重度の患者は子供を作らないこと、などであった[61][62]。安楽死の法制化準備に加わった唯一の優生学者であるフリッツ・レンツ なお不妊手術の数は1939年以降、大幅に減少したが、終戦まで継続している[62]。 1930年代、エルンスト・リューディン
アメリカ優生学協会
産児制限
人工中絶
ドイツ
不妊手術と安楽死
レーベンスボルン(生命の泉)計画
ナチス政府は「積極的優生政策」をも実施し、多産のアーリア民族の女性を表彰し、また「レーベンスボルン(生命の泉)計画」によって「人種的に純粋」な独身の女性がSS(ナチス親衛隊)の士官と結婚し、子供をもうけることを奨励した。エルンスト・リューディン
ナチス政府による優生学と安楽死と人種主義の結合は、ホロコーストを通してユダヤ人・ロマ・同性愛者を含む数百万の「不適格」なヨーロッパ人を組織的・大量に殺戮する形となって現れた。そして、絶滅収容所において、殺害に使われた多数の装置や殺害の方法は、安楽死計画においてまず最初に開発されたものであった。ナチス政府の下で、優生学といわゆる「民族科学」のレトリックが多用されたのと併せて、優生学と人種主義に関連した広範な政策が強制力をもって実行されたことで、第二次世界大戦後に優生学とナチスドイツとの間の、消せない文化的つながりが生まれたのである。 1859年、チャールズ・ダーウィンが、『種の起源』を出版したが、これを統計学的に研究したのが、ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンであった。 ゴルトンは1869年に出版した『遺伝的天才
イギリス
このようにイギリスは優生学を生み育てた国であるが、法制化はさほど進まなかった。1913年に知的障害者の強制収容を可能とする精神薄弱者法(英語版)が可決されたが、断種についての法案はその後も可決されず、精神障害者の結婚を制限する包括的な法律も制定されなかった[65]。 優生法は、ほとんど全ての非カトリックの西ヨーロッパ諸国によっても採用された。
その他ヨーロッパ諸国
デンマークはドイツに先立って1929年に断種法を制定した。原則として本人の同意が必要とされたが、同意能力が期待できない場合には後見人の代理申請が認められていた[66]。1934年の改正で本人同意が不要となり、1967年に廃止されるまで続いた。
スウェーデン政府は40年の間に優生計画の一環として6万2千人の「不適格者」に対する強制断種を実行している[67]。
同様にカナダ・オーストラリア・ノルウェー・フィンランド・エストニア・スイス・アイスランドで政府が知的障害者であると認定した人々に対して強制断種が行われた。