優生学
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

—ゴルトン、『遺伝的天才』1869年、序文[注 7]

ゴルトンは、社会は既に知的に劣った者の出生率知性に優れた者に勝る状態(すなわちダーウィンの用語で言うところの「カタストロフィー」の状態)にあるとして、逆淘汰の状況に進んでいると主張した。ゴルトン自身は如何なる形での選別方法も提示することはなかったが、もし人々が子孫を残すことの重大性を認識することで社会的規範が多少なりとも変わるならば、いつの日にか解決方法が見つかるであろう、と願った。
ゴルトン以降の理論史

英国の統計学者カール・ピアソンは、学問分野としての優生学を打ち建てることに尽力した[43]。ゴルトンと彼の統計学的方法を継承したピアソンは、「優生学」に対して生物測定学的アプローチと呼んだものを発展させた。それは種の遺伝を記述するために新たな複雑な統計モデルを発達させたものである。

しかし、グレゴール・メンデルの遺伝法則の再発見に伴って、優生学を唱道する2つの学派が現れることになった。その1つは統計学者から、他方は生物学者から構成された。統計学者たちは、生物学者たちは粗雑な数学モデルしか用いないと考え、一方、生物学者たちは、統計学者たちは生物学についてほとんど知識を持たないと考えた。

優生学は、最終的には、出生率に直接影響を及ぼす研究手法を通じて、望ましい形質を持った子供を作り出すために、意図的な選択的生殖に関わっていった。

社会進化論」は、優生学とは分岐していった。両者は知性は遺伝するという点では主張は一致するが、優生学者たちは新しい諸政策は、より「優生学的な」状況へ現状を変える必要があると主張した。他方、社会進化論者たちは、社会そのものは、もし社会福祉政策が機能しなければ(例えば、貧困者は多産であるが、乳幼児死亡率も高いといった具合に)、ゴルトンが危惧した「逆淘汰」の問題を自然に食い止めることが出来たと主張した。
フィッシャーと集団遺伝学

ロナルド・フィッシャーは優生学の熱心な推進者でもあり、1930年に出版された『自然選択の遺伝学的理論』では、「集団数(個体群)の増大が多様性を生み、それによって生存の機会の数も増大していく」と述べて後の集団遺伝学の基礎となった。さらにフィッシャーはこの考えはヒトに関しても適用できると述べ、「文明の衰退と凋落は、上流階級の生殖力の低下に帰することが出来る」とした。例証として、1911年のイギリスの国勢調査結果を基に、生殖力と社会階級とに逆関係があると述べた。そして子供の少ない家庭への補助を撤廃する一方、子沢山の家庭に対して父親の収入に比例した補助金を出すことを提案している。これに関してはフィッシャー自身が8人の子供の父親であり、その養育の負担が、彼の遺伝学・進化論的確信を深める原因の一つとする家族や友人達の証言もある。

フィッシャーの理論は、チャールズ・ゴールトン・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの孫)を初め、ウィリアム・ドナルド・ハミルトン血縁選択説の形成にも影響を与えた。また優生学会は、1929年から1934年にかけて、優生的観点から断種法(結果的には否決されたが)の制定を求めるキャンペーンを、フィッシャーらを中心として行っている。

集団遺伝学者には、J・B・S・ホールデンハーマン・J・マラーなどがおり、「改革派優生学」として知られる。
優生学運動(1890年代 - 1945年)

1905年にはドイツ優生学教育協会が設立され、優生学は、急速に世界的な潮流となった[43]。英国では、優生学教育協会(英語版)(1908年)、スウェーデン優生学教育協会(1909年)、そして国際優生学会議(1912年)が続いて設立された[43]

ゴルトンの資金援助により、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジに優生学の研究部門(1907年)と講座(1911年)が設けられた[44]

近代において優生学的な考え方を提唱した最初の一人に電話を発明したことで知られるアレクサンダー・グラハム・ベルがいる。1881年にベルはマサチューセッツ州マーサズ・ヴィニヤード島における聾者の人口比率を調査した結果、聴覚障害は自然に遺伝すると結論付け、聴覚障害を遺伝しない結婚を奨励した[45]。ベルは1921年に第2回国際優生学会議の名誉議長を務めた[46]

優生学と人種研究の科学的地位は、ナチス・ドイツの時代に最も高まったが、その後は急速に失墜した[44]
第二次世界大戦後

優生学は今では、「人間遺伝学」や「社会生物学」と呼ばれている[44]。1954年に『優生学年報』(Annals of Eugenics)は『人間遺伝学年報』(Annals of Human Genetics)と改名された[44]。また、1969年に『季刊優生学』(Eugenics Quarterly)は『社会生物学』(Social Biology)となった[44]。講座や研究所も同様の改名が行われた[44]
世界の過去の優生政策
アメリカ

人種優生政策で有名なドイツよりも、アメリカの方が優生学的な政策を開始した時期が早く、また実施していた期間も長い。アメリカの優生政策がむしろドイツに影響を与えた[47]。しかし、ナチスのようないわゆる「積極的駆逐」(=組織的殺害)は行っていない。

1896年のコネチカット州を皮切りに、多くの州で精神障害者の結婚を制限する法律が可決された。これは必ずしも優生学的な目的だけではなかったが、断種の法制化については優生主義者が決定的な役割を果たした[48]
不妊手術

1907年、インディアナ州で世界初の断種法が制定された。これは精神障害者の強制不妊手術(断種手術)を法的に認めたものである[49]。これをきっかけに他の州でも断種法が成立し、1924年までに約3,000件の断種手術が行われ、そのうちカリフォルニア州が2,500件と大多数だった[50]カリフォルニア州では梅毒患者、性犯罪者も断種の対象となった[49]。また、連邦最高裁判所1927年、「不適格者」と見做された人間に断種を行うことを可能としたバージニア州の法律に対して、アメリカ合衆国憲法に対する合憲判決を下した(バック対ベル裁判(英語版))。

アメリカ合衆国ではその後も、知的障害者に対する断種が行われ、1970年代まで続いた。1970年代までに、全米33州で6万人が強制的に断種手術を受けさせられた[50]。そのうち3分の1がカリフォルニア州である。障害者差別が社会問題としてはっきり確立されるようになったのは、1960年代前半の公民権運動がきっかけである[51]
優生記録所(1910)

1898年、米国の著名な生物学者であるチャールズ・B・ダベンポートコールド・スプリング・ハーバー生物学研究所所長として植物と動物の進化に関する研究を開始した。

1904年、ダベンポートは実験的進化を目的とした研究所の創設のためにカーネギー財団から資金援助を受け、カーネギー研究所のなかに実験進化研究所を設立した。1910年に同研究所の付属施設として優生記録所(英語版)が開設され、ダベンポートとハリー・H・ラフリン(英語版)は優生学の普及を開始した。翌1911年のダベンポートの著作『人種改良学』[52]はアメリカ優生学史上に残る仕事であり、大学教科書として使用された[注 8]。翌年ダベンポートは米国科学アカデミーの会員に選出された。

「優生記録所」は数年間に渡って膨大な量の家系図を収集し、不適者達の存在は経済的かつ社会的に劣悪な背景が遠因となっていると結論付けた。ダベンポートや心理学者のヘンリー・H・ゴダード(英語版)、自然保護論者のマディソン・グラント(英語版)などの優生学の信奉者達は、「不適格者」の問題への解決について様々なロビー活動の展開を開始した。ダベンポートは最優先事項として移民制限と断種に賛意を表した。ゴダードは自著『カリカック家』(1912年)において人種隔離を主張し、グラントはこれら全てのアイデアに賛意を表し、かつ絶滅計画も示唆していた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:141 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef