偽善
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哲学者エヴァ・キテイ(英語版)は、偽善者の基本的な属性は「自己参照型欺瞞」である[30]とした。ギルバート・ライルは、偽善的な行為とは「自分の本当の動機以外の動機によって動機づけられている」[31]こととした。対照的に、Dan Turner は、人の態度の「内部的対立または不均衡」として欺瞞があるかどうかは別とした[32]
利点

偽善には多くのマイナス面もあるが、利点ともなりうる場合がある[33]

先のマイケル・ガーソン(英語版)は、「政治や外交交渉にはしばしば偽善的な詐欺があり、大抵原理原則から始めて『交渉不可能』としたものを交渉し譲歩点を探る」と述べ、次のように語っている。偽善は避けられないと同時に必要なものである。もし人々が常に誠実、忠誠、思いやりと言った理想に従うことを要求されるとしたら、理想というものが存在し得えない。道徳的な人であるとは、誰しもが苦闘しながら繰り返し失敗し、その度に偽善者になるということなのです。公正で平和な社会とは、結局の所、自分らは理想を裏切りつつも理想を捨てない偽善者に依存しているのです[34]
日本における概念

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出典検索?: "偽善" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年10月)

偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。[35]また、これを行う者は偽善者とよばれる。

精神的な偽善は、外面では善い行為に見えても、それが本心や良心からではない心理状態を指し、行為としての偽善は、隠れて悪事を行う為に善行を装う事である。

偽善を為す要因に、虚栄心や利己心があり、前者は名誉欲や愛情欲が原因で後者は権勢欲や金銭欲である。

行為としての偽善と精神的な偽善は、別と考えて、精神的な偽善が行為としての偽善に繋がるかどうかを判断する者と、精神論で一括りに偽善を否定する者というように、偽善に対する認識は、善悪をどう認識するかで変るために一様ではない。

精神的な偽善には、腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。また、和英辞書では、利己心による偽善者である偽君子(snob)も hypocrite とされている場合がある。
日本語における用法

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日本語における偽善の意味として、「善を掲げつつ、その善行を行わない」という上記英語のhypocrisyの訳語のほかに、「ある善行が“真の善”ではない」という用法がある。

例えばある人がアフリカにおける児童の貧困を望ましくないと主張し、お金を寄付したとする。この場合、主張と行為が一致しており、英語における“hypocrisy”には当たらないが日本語における偽善に当てはまる可能性がある。その根拠として以下の点が挙げられる。
動機の不純さある善行の背景に“善意”以外の要素がある場合、その行為は真の善ではないとするもの。その要素としては「自己満足」、他者によく見られたいという「虚栄・利己心」がよく指摘される。

行為の欠点1.以外にも「お金を寄付したとしてもそれで助かるのは一時的なことであり、根本的な貧困問題を解決していない。」という主張や「寄付や援助で支援される子供は全体の一部であり、不公平が生じる。」など行為そのものに欠点が存在するため、そのような善行は偽であるとするもの。

また、たとえある行為が上記の意味で偽善であるにしてもそれを評価するかどうかには様々な意見がある(やらない善よりやる偽善)。
日本における心理表象にみる偽善

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まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。したがって「偽善」とは、自己のの自覚を含む主観であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もある。逆から言えば、自己の善性に対する懐疑のない「善」は、時には「偽善」となってしまうことも、仕方が無いと言える。

一方、自己ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいる。外面的には善と見せかけているが、その他者の内面の悪を見抜いてしまっていると言う場合と、善行に対する思慮の浅さを指摘する場合がある。前者の場合、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではないから、その他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎない。後者の場合、善行自体があまりよい結果を生み出さなかったことを指摘していることがあり、そうした場合は謙虚に受け止め、思慮の浅さを反省すべきである。

別の可能性として、内面的な事柄を度外視しても「偽善」が指摘されうる事もある。つまり、目立つところでは善い事を言ったり行ったりしていても、目立たないところでは悪事を行い、表面上の善を無にして余りあるような害悪をばらまいているような場合である。こうした時には表面上の善はいわゆる「きれいごと」であり、むしろ社会的に善行として評価されることなどによる自己利益が企図されていることもある。このとき「偽善者」という批判は、隠蔽された悪事を暴露して問題の本質を明らかにする。

ところが、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心が見られない事も稀ではない。人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム)。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面するが、「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうる[要出典]。
関連項目

詭弁

規範 - 人道

インテグリティ(偽善の対義語)

ファリサイ派 - ちりと梁

日和見主義

ハロー効果


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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