社会心理学者は一般的に偽善を態度や行動の不一致の具体化として見ている[24]。したがって、多くの社会心理学者は、個人の偽善的思考と行動への嫌悪感を説明する際の、不協和の役割に焦点を当ててきた[25][26]。
あるいは、社会心理学者の中には、偽善者は自らの道徳的な善について誤ったシグナルを発するので、人は偽善を否定的に見ているのだとしている[27]。 偽善は、少なくともマキャヴェリ以来、哲学者にとって興味深いトピックとなってきた。偽善によって提起された哲学的問題は、形而上学的/概念的と倫理的な問題に分けられる。偽善は道徳的に間違っているのか「悪い」のか。特定の分野では意味があるのか、また特に政治では必要悪なのか、といったことである[28]。 例えば、ある人が何らかの非道徳的行いをし、それに対し非難された場合、相手が偽善的であるという理由で異議を申し立てることが出来るようである。典型的な表現は、「あなたには私を責める権利はありません」というフレーズ。したがって、一部の哲学者は、他人を非難する地位または権利を得るためには、自分は偽善的であってはならないのだと主張する。この立場は偽善と公正の関係に焦点を当てるものである[29]。 そもそも偽善者とは何か。この本質について哲学的議論がなされ、初期の頃は、その欺瞞的、矛盾する性質に焦点を当てる傾向があった。哲学者エヴァ・キテイ
哲学
偽善には多くのマイナス面もあるが、利点ともなりうる場合がある[33]。
先のマイケル・ガーソン
(英語版)は、「政治や外交交渉にはしばしば偽善的な詐欺があり、大抵原理原則から始めて『交渉不可能』としたものを交渉し譲歩点を探る」と述べ、次のように語っている。偽善は避けられないと同時に必要なものである。もし人々が常に誠実、忠誠、思いやりと言った理想に従うことを要求されるとしたら、理想というものが存在し得えない。道徳的な人であるとは、誰しもが苦闘しながら繰り返し失敗し、その度に偽善者になるということなのです。公正で平和な社会とは、結局の所、自分らは理想を裏切りつつも理想を捨てない偽善者に依存しているのです[34]。この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "偽善"
偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。[35]また、これを行う者は偽善者とよばれる。
精神的な偽善は、外面では善い行為に見えても、それが本心や良心からではない心理状態を指し、行為としての偽善は、隠れて悪事を行う為に善行を装う事である。
偽善を為す要因に、虚栄心や利己心があり、前者は名誉欲や愛情欲が原因で後者は権勢欲や金銭欲である。
行為としての偽善と精神的な偽善は、別と考えて、精神的な偽善が行為としての偽善に繋がるかどうかを判断する者と、精神論で一括りに偽善を否定する者というように、偽善に対する認識は、善悪をどう認識するかで変るために一様ではない。
精神的な偽善には、腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。また、和英辞書では、利己心による偽善者である偽君子(snob)も hypocrite とされている場合がある。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
日本語における用法
出典検索?: "偽善"
日本語における偽善の意味として、「善を掲げつつ、その善行を行わない」という上記英語のhypocrisyの訳語のほかに、「ある善行が“真の善”ではない」という用法がある。
例えばある人がアフリカにおける児童の貧困を望ましくないと主張し、お金を寄付したとする。この場合、主張と行為が一致しており、英語における“hypocrisy”には当たらないが日本語における偽善に当てはまる可能性がある。その根拠として以下の点が挙げられる。
動機の不純さある善行の背景に“善意”以外の要素がある場合、その行為は真の善ではないとするもの。その要素としては「自己満足」、他者によく見られたいという「虚栄・利己心」がよく指摘される。
行為の欠点1.以外にも「お金を寄付したとしてもそれで助かるのは一時的なことであり、根本的な貧困問題を解決していない。」という主張や「寄付や援助で支援される子供は全体の一部であり、不公平が生じる。」など行為そのものに欠点が存在するため、そのような善行は偽であるとするもの。
また、たとえある行為が上記の意味で偽善であるにしてもそれを評価するかどうかには様々な意見がある(やらない善よりやる偽善)。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
日本における心理表象にみる偽善
出典検索?: "偽善"
まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。したがって「偽善」とは、自己の悪の自覚を含む主観であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もある。逆から言えば、自己の善性に対する懐疑のない「善」は、時には「偽善」となってしまうことも、仕方が無いと言える。