健児の任務は諸国の兵庫、鈴蔵および国府などの守備であり、郡司の子弟を選抜して番を作り任に当たらせ、国府におかれた健児所が統率した。健児約5人で1番を組織し、数番を作り、国庫の守備に交互に勤務させ、1人の勤務は1年間約60日と定められた。延暦14年閏7月勅によって日限を最長30日と短縮し、これによって従前の1番を分けて2番として1番あたりの人数を減じた。しかし分衛が十分でなかったため、日限を元通りの2倍にする代わりに、健児の調は免じられ、より軍務に専念させるようになった。平安時代中期貞観8年11月に勅をもって、その選任に意を用い、よく試練を行なって1人を以て100人に当り得る強力な兵士となすべきことを国司に命じた。
健児には、一般に庸・雑徭が免除されたが、志摩国など十ヶ国は雑徭のみが免除され、畿内は延暦16年(797年)、調も免除されている[5]。
なお、軍団・兵士が廃止されなかった地域、すなわち、佐渡・西海道のような国境地帯では海外諸国の潜在的な脅威が存在し、陸奥・出羽では蝦夷を討伐する対蝦夷戦争が継続していた。これらの地域では従前の大規模な軍制を維持する必要があったため、軍制の軽量化といえる健児制は導入されなかったのである。
なお、対蝦夷戦争との関係で言えば、延暦11年の健児制導入の改革の本当の目的は、騎馬を得意とする蝦夷に対して歩兵を主体とする一般百姓の兵士では対応できないため、蝦夷と対峙するための騎兵の確保を目的としていたとする説もある[6]。
その後、軍団が復活すると、健児は軍団の兵士として位置づけられ、10世紀ごろには、健児維持に用するための健児田が設定されたり、全国定員が約3600人(陸奥・出羽・佐渡にも置かれるようになったが、西海道には置かれなかった)とされていたことなどが判っている。(延喜式などによる。)
健児の導入は、それまでの一般百姓から歩兵を徴収し、中国大陸・朝鮮半島からの沿岸防備・渡海侵攻(実際には行われなかったが新羅征討計画は存在した)を前提としていた7世紀以来の律令制の基本的な軍事政策が転換され、現実的な蝦夷征討などの国内の敵対者に対する陸上攻撃に備えた体制に転換したとも言える。そして、健児と共に本格的に導入された「弓馬の士」と称された騎馬兵力はその社会的認知を高め、国衙の軍事力や貴族層の私兵としての役目を担うようになり、後世の武士の発生の源流の1つになったとする指摘もある[6]。
脚注[脚注の使い方]^ 『大日本古文書』巻1 - 332・387・391・440・450・505・621頁
^ 『類聚三代格』巻18「健児事」4
^ 北啓太「天平四年の節度使」 土田直鎮先生還暦記念会 編『奈良平安時代史論集』上巻所収、吉川弘文館、1984年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-642-02129-9。
^ 『類聚三代格』巻18「健児事」1、延暦11年6月14日「太政官符」
^ 『類聚三代格』巻17「?免事」10、延暦16年8月16日「太政官符」
^ a b 吉川真司「馬からみた長岡京時代」『律令体制史研究』所収、岩波書店、2022年、102-103頁。ISBN 978-4-00-025584-4。(初出: 国立歴史民俗博物館 編『桓武と激動の長岡京時代』山川出版社、2009年)
参考文献
『角川日本史辞典 第2版』 高柳光寿・竹内理三 編、角川書店、1966年、p. 386。
『岩波日本史辞典』 永原慶二 監修、岩波書店、1999年、p. 469。
『続日本紀 2』岩波書店〈新日本古典文学大系〉、1990年、補注11 - 52。
関連項目
相撲節会