倭王武
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『南斉書』・『梁書』では、それぞれ南斉・梁の建国時に武が任官されたことが記されるが、これらの任官は王朝建国に伴う祝賀的な任官とされ、当時実際に武が在位したかを明らかとしない[11][12][13]。武の最後の確実な遣使は昇明2年(478年)で、史料上確実な倭の次の遣使は600年607年遣隋使まで下ることとなる。ただし『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記の記述から、南斉への遣使を事実とする説もある[9]
天皇系譜への比定
日本書紀』・『古事記』の天皇系譜への比定としては、武を雄略天皇(第21代)とする説が有力視される[1][14]。これは古くは松下見林の『異称日本伝』から見える説であるが[14]、近年の研究においても、

辛亥年(定説は471年)作の稲荷山古墳出土鉄剣銘文「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や江田船山古墳出土鉄刀銘文が、雄略天皇の和風諡号「オオハツセワカタケル(大泊瀬幼武/大長谷若建)」と対応。471年のワカタケル大王の実在・在位が確実視(ただし稲荷山古墳では追葬の可能性があり、鉄剣は注意が必要な資料になる)。

「武」は和風諡号の「タケル」に由来する可能性が高い[注釈 2]
の2点から有力とされる[15][16]。また記紀では允恭天皇・安康天皇が相次いで死去する伝承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」と見える記述はこれとも対応する[15]。ただし記紀に宋への遣使の記述はなく、武の遣使年次も『日本書紀』の雄略天皇の年次(興の遣使年次を含んでしまう)と合致するものではない[15]。また、5世紀には稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文のように仮借が通例であって訓読みは確立していないとして、「武 = タケル」からの比定を批判する説もある[17]。なお『日本書紀』は宋ではなく「」との間で使者の往来があったことを記している。また『古事記』分注は安康天皇の没年を記さないが允恭天皇の没年(454年)と雄略天皇の没年(489年)の間には収まる。なお、上の稲荷山古墳出土鉄剣では「治天下大王」の概念が認められることや、「王賜」銘鉄剣の「王」から稲荷山古墳出土鉄剣の「大王」への飛躍が認められること、武は上表で珍・済の時のように吏僚の任官を求めていないこと、武以後に倭からの遣使が途絶えることなどから、武の時代には倭が冊封によらず王権を維持することが可能となったとする説が挙げられている[18][19]
墓の比定
倭の五王の活動時期において、大王墓は百舌鳥古墳群古市古墳群大阪府堺市羽曳野市藤井寺市)で営造されているため、武(ならびに雄略天皇)の墓もそのいずれかの古墳と推測される[20]。その中でも特に、岡ミサンザイ古墳(現在の仲哀天皇陵)に比定する説が有力視される[16][21]
脚注[脚注の使い方]

注釈^ 荊木美行は、武の祖先による東征・西征が四道将軍の派遣や景行天皇及びその子である日本武尊の説話に対応すると考え、武や同様に南朝に官爵を求めた3代前の珍の時代にはこうした説話の原型が成立していた可能性があるとしている(荊木美行「景行天皇朝の征討伝承をめぐって」『日本書紀の成立と史料性』燃焼社、2022年、174-176頁。(原論文:『萬葉集研究』第37冊、塙書房、2020年))。
^ 武光誠は、ワカタケル(=雄略天皇)が中国南朝との交渉の場において、「若武(ワカタケル)」と名乗らなかったことに対し、若いの語が国内では勇敢の意味であっても、漢字的には「若い」という語感によって外国君主から軽く見られかねないため、避けたと考察する(『別冊歴史読本 特別増刊24 《これ一冊でまるごとわかる》シリーズ5 古代天皇家の謎』 新人物往来社 1993年 p.86.)。

出典^ a b c 倭王武(日本人名大辞典).
^ a b c 井上秀雄『東アジア民族史 1-正史東夷伝』平凡社東洋文庫264〉、1974年12月1日、309-313頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4582802648。 
^ a b 藤堂明保竹田晃、影山輝國『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社講談社学術文庫〉、2010年9月13日、117-123頁。ISBN 4062920107。 
^ a b ブリタニカ国際大百科事典『倭の五王』 - コトバンク
^漢籍電子文献資料庫(台湾中央研究院)。
^ 井上秀雄『東アジア民族史 1-正史東夷伝』平凡社東洋文庫264〉、1974年12月1日、314頁。ISBN 4582802648。 
^ a b 井上秀雄『東アジア民族史 1-正史東夷伝』平凡社東洋文庫264〉、1974年12月1日、315-319頁。ISBN 4582802648。 
^ a b漢籍電子文献資料庫(台湾中央研究院)などで意補。
^ a b 河内春人 2018, pp. 207?228.
^ 森公章 2010, p. 23.
^ a b 倭の五王(国史).
^ a b 倭の五王(日本大百科全書).


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