倭寇
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濱中昇は倭寇の特徴である領主制が日本には存在するが、中世の朝鮮には相当するものが存在しないため倭寇の主体を朝鮮国内には求めるのは難しいとし[36]、朝鮮の賤民が倭寇と偽って略奪を働いたとする高麗史の記録についても、倭寇の襲撃がまずあり、それから若干遅れて賎民の乱暴が発生していると指摘し、倭寇とは別のそれに乗じた泥棒の類とした[36]。また、朝鮮半島南部の海民が高麗末期の倭寇に加わっていたとしても、倭寇の主力が日本人であることには変わらないし[36]、多数の騎馬や船を擁することについては現地での略奪によってその数を増やしたともした[36]。ほかにも、村井の言う「倭」と「日本」の違いについても、朝鮮が日本を国家を意識した場合とそうでない場合(蔑視の心がある場合)との使い分け、九州地方と近畿地方の文化的な差異に過ぎないとし、「倭」と「日本」は事物の本体としては同じもので、「倭」と中世の日本は別個のものではないとした[36]

沈仁安(北京大学教授)は、村井説のように倭寇を国境をまたぐ海上勢力とすることも全体的にみれば可能だが、13世紀から16世紀にかけて発生・形成・発展・変遷の過程・変化している倭寇を概括的に解釈することは、具体的な歴史過程を隠し、具体的な問題に対する具体的な分析の方法論の原則に符合しないと批判した[37]。また沈は、前期倭寇の主力は日本人(領主・武士・商人)であることは間違いなく[37]、後期倭寇に他国人が加わっても、主力を果たしたのではなく、倭寇の起源と活動初期は日本人と関係があるため、「日本古代の呼び方である『倭』寇命名」したと批判する[37]。また、古代の「倭」呼称が日本列島以外の地域の呼称としても使われており、「日本」とは別の概念だとする村井説に対して、沈は、千数百年以後の歴史的事実を紀元前後に形成された「倭」で解釈することは不適当とし、更に、古代中国における「倭」は日本のことであり、「『倭』『倭人』が、日本、日本人の古代の呼び方であることは、中国の学界では、疑問はない」とした[37]

高麗前期には見られなかった「倭」という呼称が高麗後期になって現れて「日本」と併用されていることについて武田幸男は、「倭」という呼称が現れた原因は倭寇だと述べている[38]。武田は高麗が日本を国家レベルで意識、または正式な通交相手と認識した場合は「日本」とし、国家レベルで意識せず「敵対者」と認識した時は「倭」と記しているとした[38]。なお、武田は14世紀倭寇の首領の装備について「典型的な中世日本武士」だとしている[39]
後期倭寇

後期倭寇は、中国人が中心であり、『明史』には、日本人の倭寇は10人の内3人であり、残り7人はこれに従ったものである(「大抵真倭十之三、從倭者十之七。」)と記されている[40]
倭寇の影響

中国のや韓国の高麗朝鮮王朝、また日本の室町幕府に対し、倭寇は結果として重要な政治的外交的な影響力を与えた。明は足利幕府に対し倭寇討伐を要請する見返りとして勘合貿易に便宜を与えざるを得ず、また高麗王朝は倭寇討伐で名声を得た李成桂によって滅ぼされ、李成桂によって建国された朝鮮王朝は文禄の役の頃まで倭寇対策(懐柔と鎮圧)に追われた。朝鮮王朝による対馬侵攻(応永の外寇)も、倭寇根拠地の征伐が大義名分とされていた。

また、第二次世界大戦後、韓国では日本に略奪されたと主張される文化財の返還運動が展開し、高麗仏画や仏像など日本に保管される朝鮮由来の文化財の多くは倭寇に略奪されたとする見解が韓国ではなされているが、日本では当時の李氏朝鮮政府が仏教弾圧政策をとったため日本へ貿易品として輸出されたり、贈答されたとする見解がある。
奴隷貿易

前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。

後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。[41]

1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[42]マニラの戦い (1574)カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。

戦国時代の乱妨取り文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易を行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこから東南アジア・インドに送られたものもいたという。1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる[43]イエズス会は倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇の一団から身を守るために、宣教師たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている[44]

鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』は南九州の高洲では200-300人の中国人奴隷が家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人は福州、興化、泉州?州の出身だったという[45]

歴史家の米谷均は蘇八の事例を挙げている。蘇は浙江の漁師で、1580年に倭寇に捕らえられた。蘇は薩摩の京泊に連れて行かれ、そこで仏教に銀四両で買い取られた。2年後に彼は対馬の中国人商人に売られた。6年間、対馬で働き、自由を手に入れた蘇は、平戸に移り住んだ。平戸では、魚や布を売って生活していた。そして1590年、中国船でルソン島に渡り 翌年に中国に帰国することができたという[46]
活動地域

倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・五島列島瀬戸内海をはじめ、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、また台湾島海南島にも存在していた。

ボルネオ童話において、倭寇と思しき者が活躍する伝承もあり[47]、この周辺まで広く活動していたと思われる。


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