鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』は南九州の高洲では200-300人の中国人奴隷が家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人は福州、興化、泉州、?州の出身だったという[45]。
歴史家の米谷均は蘇八の事例を挙げている。蘇は浙江の漁師で、1580年に倭寇に捕らえられた。蘇は薩摩の京泊に連れて行かれ、そこで仏教僧に銀四両で買い取られた。2年後に彼は対馬の中国人商人に売られた。6年間、対馬で働き、自由を手に入れた蘇は、平戸に移り住んだ。平戸では、魚や布を売って生活していた。そして1590年、中国船でルソン島に渡り 翌年に中国に帰国することができたという[46]。 倭寇の根拠地は日本の対馬や壱岐・五島列島、瀬戸内海をはじめ、朝鮮の済州島、中国の沿海諸島部、また台湾島や海南島にも存在していた。 ボルネオ童話において、倭寇と思しき者が活躍する伝承もあり[47]、この周辺まで広く活動していたと思われる。また倭寇であるかは不明であるが、現在のタイ(当時のシャム)においてもスペイン軍が「ローニン」の部隊に襲われて全滅したとの記録もある[48]。 倭寇の中に日本の剣術を身につけていた者もいたようで、1561年に戚継光が、倭寇が所持していたという陰流の目録を得ている。(陰流の開祖・愛洲久忠も倭寇であったという説もある)戚継光が得た陰流目録は茅元儀が編纂した『武備志』に掲載された。この『武備志』は江戸時代に日本にも伝わり、掲載されている陰流目録について松下見林らが記している。この陰流目録については陰流から派生した新陰流の第20世宗家・柳生厳長 また、日本の剣術を基にした苗刀という中国武術が明末から清初にかけて生まれた。 日本の室町時代から江戸時代にかけての海賊船は通称して「八幡(やわた)船」と呼ばれた。倭寇が「八幡(はちまん)大菩薩」の幟を好んで用いたのが語源とされるが[50]、「ばはん」には海賊行為一般を指すとも考えられている。
活動地域
武術
倭寇以後の東アジア海上世界(リマホン)、明を奉じて清に抵抗した鄭芝竜、鄭成功の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇ではないが同時代の海上勢力である。また、後期倭寇に多く見られた台湾与中国南部(広東・福建・浙江など)出身者は日本(横浜・神戸・長崎の三大中華街)や東南アジアに多数渡り、現地で華僑のコミュニティを形成し、現在も政治や経済において影響力を及ぼしている。
八幡船
脚注^ a b c d 倭寇 わこう
^ 『古語辞典 第八版』(旺文社、1994年)p.992.旗に八幡の神号を記したものを明人が「ばはん」と読んだことからできた語と説明する。
^ 「倭寇」と海洋史観
^ 建内記「是敵陣依御退治難堪忍之間、高麗盗人連続衰微難治之由、今度渡朝高麗人等嘆申、仍及是御沙汰、今日被下上使奉行飯尾加賀守為行・同大和守貞連両人也、進発畢」
^ ⇒日本から見た東アジアにおける国際経済の成立永積洋子、城西大学大学院研究年報15 ( 2 ) , pp.67 - 73 , 1999-03
^ 司馬遼太郎『街道をゆく』 (朝日文芸文庫)
^ 三田村泰助「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』人物往来社、1967年、p152
^ 三田村泰助「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』人物往来社、1967年、p157
^ 講談社学術文庫『倭国伝』)
^ 『高麗史』(列伝・金先致)
^ a b c d e 村井 (1993)
^ 『同』列伝・鄭地
^ 斎藤満 (1990)
^ a b 第9回「十四世紀(高麗末)、韓(朝鮮)半島における日本の精鋭部隊」 - 座談会資料 - 韓日歴史座談会の記録(Webサイト)
^ 貝塚茂樹 『中国の歴史 下』 岩波新書 1970年 pp.33 - 34.南朝の征西将軍懐良親王のために兵站を補給し、次第に略奪範囲が拡大し、南シナ海まで達し、直接、中国沿岸までたどり着いたと記す。
^ a b c 稲村 (1957)