倭寇
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渡辺昭夫は「長い戦乱で食糧を確保することに限界を感じた兵士達が近くに位置する高麗に頻繁に物資を求めに行ったので高麗の水路と地理に詳しくなっていた」と説明している[14]

稲村賢敷は、倭寇が数十隻から数百隻で重装備の武士も加わって多くの食糧を略奪していることから、南朝方の菊池氏肥前松浦党(松浦氏)が北朝との戦いのための物資獲得を目的に行ったとした[16]。なお稲村は倭寇の構成員について、規律があり、戦慣れした武士団だと述べている[16]。稲村は北朝方の九州探題が倭寇と南朝方の征西府を同一視して敵と見做し、かつ明から倭寇の禁圧を求められても征西府が拒否したことも論拠として挙げている[16]
明朝と南北朝と前期倭寇

中国では1368年に朱元璋王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行われようになる。

朱元璋は、福建に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、浙江には59の城を築城して5万8千の兵をおき、広東に軍船200隻をおいて防備を固めた[17]
応永の外寇詳細は「応永の外寇」を参照

1419年、朝鮮王朝の太宗は倭寇撃退を名目にした対馬侵攻を決定し、同年6月、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。応永の外寇とよばれる。朝鮮軍は敗退するが[18][19][20][21][22]、この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。

こうして前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名日明貿易、対馬と朝鮮の間の交易再開などによって下火になっていった。
後期倭寇

後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。後期倭寇の活動は交易と襲撃の両方、いわゆる武装海商である[23]。主な活動地域は広く中国沿岸であり、また台湾(当時未開の地であった)や海南島の沿岸にも進出し活動拠点とした[23]。また当時琉球王国朝貢貿易船やその版図(奄美先島含む)も襲撃あるいは拠点化しているが、しばしば琉球王府に撃退されている。また当時、日本の石見銀山から産出された純度の高い銀も私貿易の資金源であった[23]

明史』日本伝には「(中国人)賊首毛海峰自陳可願還,一敗倭寇於舟山,再敗之瀝表,又遣其黨招諭各島,相率效順,乞加重賞」。また大太刀を振りかざす倭寇の戦闘力は高く、後に戚継光が『影流目録』と倭刀を分析し対策を立てるまで明軍は潰走を繰り返した。

この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国(一説には朝鮮も)の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼福建省南部の月港を拠点とした。これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、さらに後期には、大航海時代の始まりとともにアジア地域に進出してきたポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)。

後期倭寇の頭目には、中国人の王直徐海、李光頭、許棟などがおり、王直は日本の平戸五島列島薩摩坊津港山川港などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。鉄砲伝来後、日本では鉄砲が普及し、貿易記録の研究から、当時、世界一の銃の保有量を誇るにいたったとも推計されている[24]。詳細は「鉄砲伝来」を参照

1547年には明の官僚の朱?が浙江巡撫として派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等との貿易を認めるようになる。ただし、日本に対しては後期倭寇への拠点提供など不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。

1586年フィリピンでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年下山しルソンを植民地にするつもりだと言われている」と日本人によるフィリピン侵略について警鐘を鳴らしていた[25]

一方、朝鮮半島では1587年には、朝鮮辺境の民が背いて倭寇に内通し、これを全羅道の損竹島に導いて襲わせ、辺将の李太源が殺害されるという事件が起こった[26]。1589年、秀吉からの朝鮮通信使派遣要請の命を受け朝鮮を訪れた宗義智は朝鮮朝廷からの朝鮮人倭寇の引き渡し要求を快諾、数カ月の内に朝鮮人倭寇を捕らえ朝鮮に引き渡した[27]。この朝鮮からの要求は朝鮮通信使派遣要請に対する引き伸ばし策でもあったが、あっさりと解決を見たことにより翌1590年、正使・黄允吉、副使・金誠一通信使として日本に派遣された[26]。「文禄・慶長の役」も参照
倭寇の構成員に関する学説

初期?最盛期の前期倭寇の構成員は、「高麗史」に見える高麗末500回前後の倭寇関連記事の内、高麗人が加わっていたと明記されているのは3件であり、構成員の多くが日本人であったと推測される。[28]
高麗の賤民の関与(田中説)

東京大学教授の田中健夫は、1370年から1390年初めに倭寇の襲撃が激化したのは新たに高麗の賤民階級が加わったからだとし、高麗を襲った倭寇の構成員を日本人を主力として若干の高麗の賤民を含むとした[29]。また、田中はのちに、倭寇の構成を日本人と朝鮮人の連合か、または朝鮮人のみであったともし[30]、さらに、高麗(李朝)にとって倭寇は外患であると同時に内憂でもあり、李氏朝鮮が高麗から引き続いて倭寇が外患であることを強調することで倭寇が抱える内憂の性格を隠蔽し、それを梃子として国家体制を確立したとも述べている[31]

田中説について東京大学名許教授の村井章介は、多くの人員や馬を海上輸送させる困難さの説明も含めて説得力があるとしたが、田中が主張の根拠とした朝鮮王朝実録に記されている世宗王代の判中枢院事・李順蒙の発言[32]について、膨大な朝鮮の史料のなかで倭寇に占める倭人の比率が記載されているのは田中が挙げた一例しか存在せず、その上、その史料は倭寇の最盛期から50年以上後のものであることを述べ[11]、また、その史料の文脈は賦役から逃亡する辺境の民が多い、という事態の模範として提出されており、賤民階級に対する蔑視が、基本的な考え方となっているため、「倭人が一割?二割に過ぎない」という記述をそのまま受け入れることは出来ないと批判している[11]
「境界人」説(村井説、他)

倭寇の正体について、村井は、当時国家概念が明確ではなく、日本の九州、朝鮮半島沿岸、中国沿岸といった環東シナ海の人々が国家の枠組みを超えた一つの共同体を有しており、村井は彼らを「倭人」という「倭語」「倭服」といった独自の文化をもつ「日本」とはまた別の人間集団だとし、境界に生きる人々(マージナル・マン)と呼んでいる。村井によれば、倭寇の本質は国籍や民族を超えた人間集団であり、日本人、朝鮮人といった分別は意味がないと述べている[11]。ほかに、高橋公明は倭寇の構成について、済州島の海民も倭寇に加わっていった可能性を唱え、倭寇の活動が「国境をまたぐ地域」で繰り広げられた国家の枠組みを越えた性格のものと述べている[33]

東郷隆は前期倭寇の首領のひとり、阿只抜都について赤星氏や相知比氏(松浦党)といった九州の武士、あるいはモンゴル系島嶼人や高麗人といった様々な推測をしている[34]


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