「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した」[9]。 「高麗史」によれば、1375年の藤経光 前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく私掠船も活動し易かった。前期倭寇の活動地は朝鮮沿岸や中国沿岸(登州、膠州など黄海沿岸)である。 『高麗史』によれば1350(庚寅)年2月「倭寇の侵すは此より始まる」という記事があり、これが当時の公式見解であったようだが、庚寅年以前にも多数の記事がある。文献によると最も古いのは『高麗史』によれば高宗10年(1223年)5月条「倭寇金州」とあるのが初出である。これ以後史料には頻繁に現れている。 1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣、羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年の朴?による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した[11]。これ以降倭寇の侵入は激減する[11]。 なお、『高麗史』によれば、高麗は宗主国である元や明に上奏し、元寇以降もさかんに軍艦を建造しており、日本侵攻を繰り返すことになるが、これは、対馬を拠点とする倭寇討伐や日本侵略を口実に元や明の大軍が再び自国に長期駐留して横暴を極めることをおそれたあまりの「先走り」だとされる[12]。 斎藤満 稲村賢敷 中国では1368年に朱元璋が明王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が1392年に南北朝合一を行うと、明との貿易を望んだ義満は、明に要請されて倭寇を鎮圧した。倭寇鎮圧によって義満は明朝より新たに「日本国王」として冊封され、1404年(応永11年)から勘合貿易が行われようになる。 朱元璋は、福建に16個の城を築城して1万5千の兵と軍船100隻をおき、浙江には59の城を築城して5万8千の兵をおき、広東に軍船200隻をおいて防備を固めた[17]。 1419年、朝鮮王朝の太宗は倭寇撃退を名目にした対馬侵攻を決定し、同年6月、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。応永の外寇とよばれる。朝鮮軍は敗退するが[18][19][20][21][22]、この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。 こうして前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名の日明貿易、対馬と朝鮮の間の交易再開などによって下火になっていった。 後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったとされる。後期倭寇の活動は交易と襲撃の両方、いわゆる武装海商である[23]。主な活動地域は広く中国沿岸であり、また台湾(当時未開の地であった)や海南島の沿岸にも進出し活動拠点とした[23]。また当時琉球王国の朝貢貿易船やその版図(奄美、先島含む)も襲撃あるいは拠点化しているが、しばしば琉球王府に撃退されている。また当時、日本の石見銀山から産出された純度の高い銀も私貿易の資金源であった[23]。 『明史』日本伝には「(中国人)賊首毛海峰自陳可願還,一敗倭寇於舟山,再敗之瀝表,又遣其黨招諭各島,相率效順,乞加重賞」。また大太刀を振りかざす倭寇の戦闘力は高く、後に戚継光が『影流目録』と倭刀を分析し対策を立てるまで明軍は潰走を繰り返した。 この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国(一説には朝鮮も)の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点とした。これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、さらに後期には、大航海時代の始まりとともにアジア地域に進出してきたポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)。 1547年には明の官僚の朱?
藤経光誘殺未遂の報復説
前期倭寇
前期倭寇と高麗
南北朝時代の政治動乱と倭寇
明朝と南北朝と前期倭寇
応永の外寇詳細は「応永の外寇」を参照
後期倭寇
1586年、フィリピンでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年下山しルソンを植民地にするつもりだと言われている」と日本人によるフィリピン侵略について警鐘を鳴らしていた[25]。
一方、朝鮮半島では1587年には、朝鮮辺境の民が背いて倭寇に内通し、これを全羅道の損竹島に導いて襲わせ、辺将の李太源が殺害されるという事件が起こった[26]。