現在では、紀元前450年頃の、つまり春秋時代(「呉越同舟」で有名な呉越戦争の時代で、呉が滅亡した時期)の組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっており、また、「倭人は周の子孫を自称した。」という記録もあることから、長江文明の象徴でもある水耕稲作文化の揚子江一帯の呉人が紀元前5世紀頃、呉王国滅亡とともに大挙して日本列島に漂着していたという説も有力になっている。春秋時代の呉人は百越のひとつでもある。
『宋書』楽志「白紵舞歌」というものがあり、その一節に「東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯曽城」(東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、昆崙に至りて曾城に戯る。[12])とある。この「(白)紵」というのは呉に産する織物であった。律令制度では越国(越後・越中・能登・加賀・越前)として画定された。「越」は「高志」「古志」とも表記された[13]。
「越人」も「呉人」も、どちらも「百越人」と呼ばれ長江文明の稲作水稲文明を日本にもたらした弥生人の一種といえ、春秋時代末期に「越」によって滅ぼされた「呉」の海岸沿いの住人たちには入れ墨の文化があり(荘子内篇第一逍遙遊篇)、これは魏志倭人伝などの倭人の風俗と類似したもので、呉人が海路、亡命して漂着したという説も有力である(安曇族も参照)。 父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した[14]。注目すべきは日本列島においてM55のSNPによって定義される縄文系のD-Z1500系統が日本人男性の3割、さらにその中のCTS8093のSNPによる系統が約2000年前に発生したにもかかわらず、日本人男性の1割を占めていることである。O-CTS11986によって定義される系統は日本人の弥生系の子孫であり、D-Z1500系統に次いで多数を占める。さらにM216のSNPを持つC系統を合わせると日本人男性の8割がこのいずれかに属しており、現在の日本人男性の大半を占める[15][16]。C系統の内、F3393以下のM8のSNPを持つ系統は、非YAP(YAPの変異を持たない)縄文系であり、日本列島に最初に到達した系統であるともみられている[17]。C系統の内、M213の痕跡を持つものは、モンゴル、女真、満洲などの北方遊牧民族と祖を同じくし歴史時代になって以降の渡来とみられる。漢民族に由来するM122のSNPを持つO-M122系統は中国、朝鮮、ベトナム等においては最多を占め、東南アジア、インド北東部やネパールなどの南アジアでも広範囲に見られるO系統の最大のサブグループであるにもかかわらず、日本においてはD-Z1500,O-M176の両系統に次ぐことが特徴的である[18]。O-M122系統は現在の日本人のY染色体ハプログループの中に父系の有力なクラスターを残しておらず、遺伝子的にみれば、分岐系統が異なる雑多な寄せ集めであるため、散発的に日本列島に渡来したと考えられている[19]。 A0000 A000-T
分子人類学からの考察
Y染色体一塩基多型分岐図
PR2921 A00 A0 A1a A1b1 サン族
L1090 P305 V221 M42 M168