倫理学
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古代ギリシア伝統神話に囚われない哲学的営みは、アナトリア半島小アジア半島)西海岸のイオニア学派に始まる「自然哲学」と、イタリア半島南部(マグナ・グラエキア)のイタリア学派ピタゴラス学派エレア派)に始まる「数理哲学論理哲学」という2つの潮流が主導する形で始まった[10][11] 。その中には、ピタゴラス学派(ピタゴラス教団)のように宗教教団的色彩を帯びたり、ヘラクレイトスのようにその世界観と共に倫理を説く者もいたが、後世で大きな潮流を成すには至らなかった。[12]

第3の哲学として「倫理哲学」(倫理学)を確立・大成するに至ったのが、アテナイを拠点としたソクラテスと、彼を題材として多くの著作を残したプラトンである。(紀元後3世紀に『ギリシア哲学者列伝』を書いたディオゲネス・ラエルティオスも、その著書の中で、ソクラテスを「倫理学」の祖と明記している[13]。)

ソクラテスは、問答法弁証法ディアレクティケー)を駆使しながら、「」の執拗な探求とその実践、そしてアテナイ人をはじめとする民衆への普及に生涯を費やした。彼自身は著書を残さなかったが、彼の弟子の1人であるプラトンが、(アテナイの民衆に刑死に追い込まれたその悲劇的な死も含め)その生涯を題材に数多くの著作(対話篇)を残し、彼の学園アカデメイアを中心に普及させたことで、その学派アカデメイア派の隆盛とともに、後世に大きな潮流を形成するに至った。

プラトンは、40歳頃にイタリア半島南部(マグナ・グラエキア)に旅行し、当地のピタゴラス学派エレア派と交流を持ったことで、独自の思想を形成するに至り、「イデア論」を背景として「善のイデア」を探求していく倫理学思想を確立した。この倫理学は、個人で完結するものではなく、哲人王夜の会議を通じて、現実の政治・法治・国家運営へと適用・活用されることが要請される。

また、ソクラテスには、プラトンの他に数多くの弟子・友人がおり、その中からはメガラのエウクレイデスに始まるメガラ学派アリスティッポスに始まるキュレネ派アンティステネスに始まるキュニコス派といった学派や、多くの著作を残したクセノポン等を輩出し、後世に影響を与えた。

プラトンのアカデメイアで学んだアリストテレスは、アレクサンドロス大王の家庭教師を経つつ、50歳ごろにアテナイ郊外に自身の学園リュケイオンを設立し、倫理学を含む総合的な学究に務めた。彼の学派ペリパトス派逍遥学派)は、プラトンのアカデメイア派と並ぶ一大潮流となり、後世に大きな影響を与えた。

アリストテレスの倫理学は、(論理学形而上学と共に)ソクラテス・プラトンのそれを更に精緻化したものであり、「最高善」を究極目的とした目的論的・幸福主義的な倫理学としてまとめられた。また、ソクラテス・プラトンの場合と同じく、倫理学が政治学の基礎となっており、現実の政治・国制へと適用・活用することが要請される。アリストテレスの倫理学的著作は、ペリパトス派(逍遥学派)の後輩たちに継承され、『ニコマコス倫理学』等として編纂された。

他の倫理学的学派としては、アカデメイアやリュケイオンで学んだエピクロスに始まるエピクロス派や、キュニコス派・アカデメイア派の影響を受けたゼノンに始まるストア派などがある。古代ローマへは、キケロ等の著作を通じて、アリストテレスやストア派の思想が紹介・伝播され、ローマ帝国末期にキリスト教が席巻するまで、大きな影響力を誇った。(アリストテレスの著作・思想は、後に中東イスラーム圏経由で、中世の欧州に再輸入され、スコラ学の形成に大きな影響を与えた。)また、プラトンの思想は、ネオプラトニズムを経由しつつ、キリスト教神学キリスト教哲学へと吸収され、その骨子の一部となった。
インド

古代インドでは、紀元前のアーリア人侵入以降、その祭祀階級であるバラモン等によって思想が醸成されていき、紀元前7世紀頃に聖典『ヴェーダ』の付属文献『ウパニシャッド』に表れるような哲学として結実していった。そこに現れる倫理学は、世界そのものであるブラフマンと各人の個我たるアートマンの一体性(梵我一如)へと認識を昇華させることで、「サンサーラ輪廻)」から解脱することを人生の究極目的とする目的論としてまとめられた。この倫理観は、バラモン教の後継であるヒンドゥー教アースティカ)によって広まっていった。また、古代マウリア朝チャンドラグプタ王の宰相カウティリヤは、その著書『実利論』の中で、人生の目的を

アルタ(英語版)(実利)

カーマ(性愛)

ダルマ(法)

のトリヴァルガ(三組)とする倫理観をまとめ上げ、後世に影響を与えた。中世に登場したナーナクは独自の教義で教団を創設し、その教義はシーク教徒の「倫理」に影響を与えた[14]
中国

春秋戦国時代諸子百家の1つ、孔子に始まる儒家は、徳治主義を掲げ、徳の探求とその社会構成員への普及、内的向上を志向する点で、法治主義法家と対比される。孔子が開始し、老子らが引き継いだ儒家は、中国歴代王朝によって国の基本的教えとなった。[15]一方で儒家・儒学は、後年日本の教育勅語や修身の教科書などに影響を与え、昭和戦前の軍国主義者に利用された。

また、墨家は「兼愛」(平等愛)を倫理的徳目として掲げるなど、儒家と対比される。
宗教からの分離

ドイツ哲学者のルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは『ピエール・ベール』(1838年)において、宗教(一神教)から独立した無神論的倫理学の可能を論証した[16]。したがって、西洋において、宗教と倫理の分離は比較的新しい時代に行われた。一方、儒教では、『論語』の「子、怪力乱神を語らず」の伝統があり、近世日本では有鬼論と無鬼論に別れた(詳細は無神論近世日本を参照)。

イギリストマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然、すなわち天をインモラルとはいわずにアンモラルといい、道徳観は人が作るものであり、天や地に客観的にあるものではないとした(新渡戸稲造 『修養』明治44年刊、第十章「逆境にある時の心得」内の「逆境の人はなぜ天を怨むのか」の項)。

分類
メタ倫理学詳細は「メタ倫理学」を参照

メタ倫理学は、道徳判断に含まれる概念の分析や、倫理的主張の理論的正当化を課題とする倫理学の一分野である。20世紀に言語哲学分析哲学の影響を受けて流行した。リチャード・ガーナーとバーナード・ローゼンは、メタ倫理学の分類をおこなった。[17]代表的論者として、ジョージ・エドワード・ムーアらがいる。


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