倉本聰
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幼稚な制作者が幼稚なドラマを作っている」と批判している[40]

『北の国から』終了については、「スタッフが高齢化した」とするフジテレビの説明を「おかしな理由だ。スタッフを替えればいい」と批判している[40]

人間関係

西武鉄道グループオーナーの堤義明とは、麻布中学・高校時代の同級生である[21]2005年、堤が証券取引法違反に問われた東京地裁公判においては、倉本自ら弁護側証人を申請し出廷した。また、こうした交友関係がもとになって、富良野自然塾などの事業の実現につながっている。

麻布中学・高校時代の同級生に銀座山野楽器の息子が居た縁で、山野楽器店にあった当時まだ高価だったテープレコーダーを自由に使う事が出来た。倉本は友人らと共にそのテープレコーダーを使って音声ドラマ(いわゆるラジオドラマと同じもの)を1本仕上げた。本人曰く「これが人生で最初に作ったドラマである」とのことである。

映画監督中島貞夫とは、東大在学中、ギリシア悲劇研究会にともに所属しており、中島の『くノ一忍法』(1964年)、『旗本やくざ』(1966年)など、初期監督作品の脚本を手がけている。

自身の母の晩年と死をモデルにしたドラマ『りんりんと』への出演がきっかけで、晩年の田中絹代と深い交流を持ち、この交流が『前略おふくろ様』のヒットにつながる。田中の死の直後に彼女が演じる「おふくろ様」の死を描いた『前略おふくろ様』の最終回が放映されて話題となった。

『前略おふくろ様』で主演を務めた萩原健一との出会いについて「目のさめる想いがした。そしてその想いは次第に僕の中で『勝海舟』の岡田以蔵に転化していく。彼と初めて出逢ったことが、僕の中の狂気を安心させ、そうして遂に平和温厚なNHKと衝突してしまう」と語っている[41]

札幌在住当時に手がけたドラマ『幻の町』に特別出演した北島三郎に頼み込んで、一時期付き人となり巡業に同行した[42]。これはロケ地の小樽で地元民が北島に熱狂する姿を見て「この人気は何なんだ」と関心を持ったことがきっかけだった。巡業中、北島が観衆のどんなリクエストも歌うというコーナーで両者がお互いに遠慮も何もなくやり取りする模様に、自分が今まで庶民ではなく「上から目線」で批評家や業界などに気に入られるような作品を書こうとしていたのではないかという思いに駆られ、「俺は変わろう」と思った気がすると記している[42]

野沢尚三谷幸喜と3人で仕事をした際(川、いつか海へ 6つの愛の物語)、企画会議中真剣に討論している倉本と野沢を、三谷が発言せず感心しながら聞いていたところ(三谷はこのような討論をしたことがなかったため)、倉本は三谷に向って「もっと主張しなさい、君は卑怯だ」と言ったことがある[43]
作品の特徴

語尾を濁すような独自の口調で語られるモノローグ(ナレーション)を多用した脚本で著名(ただし、『前略おふくろ様』で初めて取り入れた手法であり、それ以前には用いていなかった[注 5])。

また、映像や音楽(BGM)まで想定した脚本を書くため、しばしば演出家や映画監督に脚本の改変を禁止することもある。もっとも、倉本自身は台本よりもよい表現方法をしてくれたときには「そっちの方がいい!そのように変えてください」と諸手を挙げて賛成するとしており、「語尾の一字一句も直すと怒ると変な噂を立てられたのは全く以て心外」と述べている[45][注 6]

うちのホンカン』、『北の国から』の初期や、映画『ブルークリスマス』では、(未知の知的生命体のものとしての)UFOが登場する描写がある。また、『火の用心』の登場人物の一人が超能力を持つなどの描写がある。『北の国から』にUFOを出したことについて、倉本は移住当時北海道でUFOを目撃したという騒ぎがよくあったことと、科学で割りきれないものやメルヘンやファンタジーを大切にしたいという思いが背景にあったことを述べている[46]

脚本家の山田太一は、刺激を受けた同業者として向田邦子田向正健、倉本の名を挙げた[47]。また、倉本作品の魅力のひとつは「間がいい」点だと評している[48]
受賞歴

ゴールデンアロー賞(1976年、『前略おふくろ様』)

毎日芸術賞(1976年、『前略おふくろ様』)

昭和51年度(第27回)芸術選奨文部大臣賞(1976年、『前略おふくろ様』)

山本有三記念路傍の石文学賞1982年、『北の国から』小説版)

山路ふみ子文化財団特別賞(1986年)

小学館文学賞(1987年、『北の国から '87初恋』小説版)

紫綬褒章(2000年)

第21回向田邦子賞(2002年、『北の国から 2002遺言』)

第56回北海道新聞文化賞特別賞(2002年)[49]

旭日小綬章(2010年)[50]

第55回ギャラクシー賞 放送批評懇談会55周年紀念賞(2018年)[51]

主な作品
テレビドラマ

『パパ起きて頂だい
』(1959年日本テレビ系)

『教授と次男坊』(1961年、日本テレビ系)

現代っ子』(1963年、日本テレビ系)

0戦はやと』(アニメ、1964年フジテレビ系)※主題歌の作詞も担当。

『チコといっしょに』(1965年、日本テレビ系)※演出:矢追純一

『勝海舟』(1965年、毎日放送制作・NET系)

青春とはなんだ』(1965年、日本テレビ系)

『千姫』(1966年、毎日放送制作・NET系)

これが青春だ』(1966年、日本テレビ系)

文五捕物絵図』(1967年NHK

太陽野郎』(1967年、日本テレビ系)

颱風とざくろ』(1969年、日本テレビ系)※演出:藤田繁矢(藤田敏八)

わが青春のとき』(1970年、日本テレビ系)

君は海を見たか』(1970年、日本テレビ系)

『砂の城』(1970年、NHK)

2丁目3番地』(1971年、日本テレビ系)

東芝日曜劇場TBS系)

第772回『おりょう』(1971年、中部日本放送)※昭和47年日本民間放送連盟賞 番組部門(テレビ娯楽) 最優秀賞

第790回『風船のあがる時』(1972年、北海道放送)※昭和47年日本民間放送連盟賞 番組部門(テレビ娯楽) 優秀賞

第802回『平戸にて』(1972年、RKB毎日放送

第828回『父(とん)ちゃん』(1972年)

第829回『田園交響楽』(1972年、北海道放送)

第848回『祇園花見小路』(1973年、中部日本放送)※昭和48年日本民間放送連盟賞 番組部門(テレビ娯楽) 最優秀賞

第877回『ばんえい』(1973年、北海道放送)

第888回『聖夜』(1973年、北海道放送)

第926回『りんりんと』(1974年、北海道放送)

第947回『ああ!新世界』(1975年、北海道放送)

うちのホンカン』シリーズ(1975年 - 1981年、北海道放送)

第1000回『幻の町』(1976年、北海道放送)

第1040回『ひとり』(1976年、北海道放送)

第1092回『時計』(1977年、北海道放送)

第1131回『スパイスの秋』(1978年、北海道放送)

第1183回・第1184回『遠い絵本』(1979年、北海道放送)

第1460回『遅れてきたサンタ』(1984年、北海道放送)


挽歌』(1971年、NHK)

赤ひげ』(1972年、NHK)

『ぜんまい仕掛けの柱時計』(1972年、NHK)※昭和47年度(第27回)文化庁芸術祭賞 テレビ部門(ドラマの部) 優秀賞

火曜日の女『ガラス細工の家』(1973年、日本テレビ系)

白い影』(1973年、TBS系)


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