倉本聰
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18歳の頃から喫煙を始めており、喫煙量は1日に60本から80本と語る[31][32][33][34]受動喫煙防止を目的に禁煙化の進む昨今の風潮を「禁煙差別」と称して批判しており、受動喫煙防止条例を制定した神奈川県や、生活環境条例により路上喫煙を禁止している千代田区へは足を踏み入れないようにしている[35]

演劇では、脚本、演出をひとりでこなす。

お香を好んでおり、仕事中はお香を焚く。愛飲している酒の一つに、ジャックダニエルがある[36]

西田ひかるを好きな余り、愛犬に「西田」という名前をつけている[37]。「メイサ」と名付けた愛犬もいる。

ライフワークとして、森の樹木を題材とした点描画を描いている。ドラマ脚本に携わる中でスタッフとイメージを共有するため劇中のシーンのイメージを絵コンテで描いたことを契機に絵にはまり、デッサンを学んだ後、「影の濃淡を点の密度や強さで出せないか」として点描画へと進む。徹底的な人物描写を得意とする脚本と同様に、樹木1本1本の個性や歴史に着目し、その心の声を独自の表現法により点描画で表す。「森のささやきが聞こえますか 倉本聰の仕事と点描画展」と題した個展を各地で開催している[38][39]

今の日本のドラマについては、「幼稚化の極みにある」「大人の鑑賞に堪えうるドラマが無くなった。その原因の一つは、役者がいなくなったこと。もう一つはシナリオが良くないこと」「原作を探す場合も、今の制作者は小説よりもマンガから話を探してくることが多くなった。プロデューサーたちに小説を読み込む能力がなくなり、マンガならばという発想になっている。幼稚な制作者が幼稚なドラマを作っている」と批判している[40]

『北の国から』終了については、「スタッフが高齢化した」とするフジテレビの説明を「おかしな理由だ。スタッフを替えればいい」と批判している[40]

人間関係

西武鉄道グループオーナーの堤義明とは、麻布中学・高校時代の同級生である[21]2005年、堤が証券取引法違反に問われた東京地裁公判においては、倉本自ら弁護側証人を申請し出廷した。また、こうした交友関係がもとになって、富良野自然塾などの事業の実現につながっている。

麻布中学・高校時代の同級生に銀座山野楽器の息子が居た縁で、山野楽器店にあった当時まだ高価だったテープレコーダーを自由に使う事が出来た。倉本は友人らと共にそのテープレコーダーを使って音声ドラマ(いわゆるラジオドラマと同じもの)を1本仕上げた。本人曰く「これが人生で最初に作ったドラマである」とのことである。

映画監督中島貞夫とは、東大在学中、ギリシア悲劇研究会にともに所属しており、中島の『くノ一忍法』(1964年)、『旗本やくざ』(1966年)など、初期監督作品の脚本を手がけている。

自身の母の晩年と死をモデルにしたドラマ『りんりんと』への出演がきっかけで、晩年の田中絹代と深い交流を持ち、この交流が『前略おふくろ様』のヒットにつながる。田中の死の直後に彼女が演じる「おふくろ様」の死を描いた『前略おふくろ様』の最終回が放映されて話題となった。

『前略おふくろ様』で主演を務めた萩原健一との出会いについて「目のさめる想いがした。そしてその想いは次第に僕の中で『勝海舟』の岡田以蔵に転化していく。彼と初めて出逢ったことが、僕の中の狂気を安心させ、そうして遂に平和温厚なNHKと衝突してしまう」と語っている[41]

札幌在住当時に手がけたドラマ『幻の町』に特別出演した北島三郎に頼み込んで、一時期付き人となり巡業に同行した[42]。これはロケ地の小樽で地元民が北島に熱狂する姿を見て「この人気は何なんだ」と関心を持ったことがきっかけだった。巡業中、北島が観衆のどんなリクエストも歌うというコーナーで両者がお互いに遠慮も何もなくやり取りする模様に、自分が今まで庶民ではなく「上から目線」で批評家や業界などに気に入られるような作品を書こうとしていたのではないかという思いに駆られ、「俺は変わろう」と思った気がすると記している[42]

野沢尚三谷幸喜と3人で仕事をした際(川、いつか海へ 6つの愛の物語)、企画会議中真剣に討論している倉本と野沢を、三谷が発言せず感心しながら聞いていたところ(三谷はこのような討論をしたことがなかったため)、倉本は三谷に向って「もっと主張しなさい、君は卑怯だ」と言ったことがある[43]
作品の特徴

語尾を濁すような独自の口調で語られるモノローグ(ナレーション)を多用した脚本で著名(ただし、『前略おふくろ様』で初めて取り入れた手法であり、それ以前には用いていなかった[注 5])。

また、映像や音楽(BGM)まで想定した脚本を書くため、しばしば演出家や映画監督に脚本の改変を禁止することもある。もっとも、倉本自身は台本よりもよい表現方法をしてくれたときには「そっちの方がいい!そのように変えてください」と諸手を挙げて賛成するとしており、「語尾の一字一句も直すと怒ると変な噂を立てられたのは全く以て心外」と述べている[45][注 6]

うちのホンカン』、『北の国から』の初期や、映画『ブルークリスマス』では、(未知の知的生命体のものとしての)UFOが登場する描写がある。また、『火の用心』の登場人物の一人が超能力を持つなどの描写がある。『北の国から』にUFOを出したことについて、倉本は移住当時北海道でUFOを目撃したという騒ぎがよくあったことと、科学で割りきれないものやメルヘンやファンタジーを大切にしたいという思いが背景にあったことを述べている[46]

脚本家の山田太一は、刺激を受けた同業者として向田邦子田向正健、倉本の名を挙げた[47]。また、倉本作品の魅力のひとつは「間がいい」点だと評している[48]
受賞歴

ゴールデンアロー賞(1976年、『前略おふくろ様』)

毎日芸術賞(1976年、『前略おふくろ様』)

昭和51年度(第27回)芸術選奨文部大臣賞(1976年、『前略おふくろ様』)

山本有三記念路傍の石文学賞1982年、『北の国から』小説版)

山路ふみ子文化財団特別賞(1986年)

小学館文学賞(1987年、『北の国から '87初恋』小説版)

紫綬褒章(2000年)

第21回向田邦子賞(2002年、『北の国から 2002遺言』)

第56回北海道新聞文化賞特別賞(2002年)[49]

旭日小綬章(2010年)[50]

第55回ギャラクシー賞 放送批評懇談会55周年紀念賞(2018年)[51]

主な作品
テレビドラマ

『パパ起きて頂だい
』(1959年日本テレビ系)

『教授と次男坊』(1961年、日本テレビ系)

現代っ子』(1963年、日本テレビ系)

0戦はやと』(アニメ、1964年フジテレビ系)※主題歌の作詞も担当。

『チコといっしょに』(1965年、日本テレビ系)※演出:矢追純一

『勝海舟』(1965年、毎日放送制作・NET系)

青春とはなんだ』(1965年、日本テレビ系)

『千姫』(1966年、毎日放送制作・NET系)

これが青春だ』(1966年、日本テレビ系)

文五捕物絵図』(1967年NHK

太陽野郎』(1967年、日本テレビ系)

颱風とざくろ』(1969年、日本テレビ系)※演出:藤田繁矢(藤田敏八)


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