倉本聰
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東京学芸大学附属小金井小学校から麻布中学校・高等学校へ進学。中学時代より加藤道夫に私淑して演劇に夢中になり、2年続けて浪人[3]東京大学に合格後もほとんど学校に行かず、俳優座のスタジオ劇団「仲間」の文芸部に所属して戯曲を書き始めた[3]。大学2年の時にデビュー作「鹿火」がラジオ(青森放送)で流れ、大学4年の時には新日本放送(現毎日放送)から依頼されたラジオドラマの脚本(牧逸馬原作「この太陽」)を執筆している[11]

1959年ニッポン放送に入社。本当はフジテレビが第一志望だったが、この年はフジテレビ・ニッポン放送・文化放送の3局が合同で新卒採用を行っており、気がついたらニッポン放送に回されていたという。局では本名でディレクタープロデューサーとして勤務する傍ら「倉本聰」のペンネームで脚本家としての活動を行う[12]。『パパ起きて頂だい』(日本テレビ)が脚本家デビュー作。会社に内緒で脚本活動を行なっており、当時は夜10時に会社を出て帰宅してから脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった[13]

1963年にニッポン放送を退社。退社のいきさつについて倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められたうえ『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている[14]。また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると「もたない」と思いました」と語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことを示している[13]岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない、と東映に籍を置かせて欲しいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと書かれている[15]

その後、東京でフリーの脚本家となったが、NHK大河ドラマ勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中降板。1974年6月、取材を受けた週刊誌『ヤングレディ』の記事がNHKを攻撃する内容に変わっていたので、最終稿まで確認して記事は修正されたが、広告の見出しが「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」と修正されぬまま出てしまったことがきっかけだった。当時の制作局長には軽率を謝罪したが、20 - 30人からつるし上げられたという[16][注 2]。その日に千歳空港へ飛び、そのまま北海道札幌市に転居。NHKとはこのあといったん和解して1979年に単発正月ドラマ『年の始めの』を書きおろしたが、演出姿勢に不満を漏らし再び絶縁となる。

1977年富良野市に移住[17][注 3]

1981年、富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』で話題を呼ぶ。他に歌志内市上砂川町を舞台とした『昨日、悲別で』の脚本、富良野を舞台に父子の絆の断絶と再生を描く『優しい時間』の原作など、北海道を舞台とした数々のドラマでも有名。

1986年、監督・脚本を担当した映画『時計 Adieu l'Hiver』が公開される[注 4]

若手の俳優と脚本家を養成するために、1984年に、富良野市布礼別にて「富良野塾」を私財を投じて開設し、26年にわたって主宰した。塾生は受講料は無料で2年間共同生活をし、夏季は地元の農協や農家などの協力を得て畑仕事を手伝い塾生自らが生活費を稼ぎ出し、冬季は集中講義などの他、ふらの演劇工場で行われる演劇公演に向けた稽古をおこなうスタイルだった[20]。年一回、原始の日(電気・水道・ガスに頼らない、いわゆる原始生活を体験する行事)を設けるなどのユニークな養成術で知られ、脚本家の友澤晃一(第1期)、吉田紀子(第2期)、田子明弘(第3期)、久松真一(第5期)、俳優の加藤久雅(第4期)、二階堂智(第6期)らを送り出した。また、富良野塾の活動を受け市民によって設立されたNPO法人・ふらの演劇工房にも深く関わり、同市に建てられた劇場・ふらの演劇工場にも大きく貢献している。


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